HISTORY #01
「危機を越えて…」
COLUMN_1
「戦中戦後の京都市美術館」
美術館と大第二次世界大戦
中谷至宏(キュレーター)
「危機を越えて…」コラム1では、昭和の初めに大礼記念京都美術館として開館した京都市美術館(京都市京セラ美術館)が、戦中戦後の混乱の中で芸術という営みを絶やさないという信念のもと、美術館の機能をなんとか手放さぬようにと過ごした緊迫の日々を、美術館に残る史料から読み解く中谷至宏氏のコラムを紹介します。
はじめに

大礼記念京都美術館の名称のもとでの京都市美術館の開館は1933(昭和8)年11月。大礼奉祝会の記念事業として美術館建設の準備が開始されたのは1928(昭和3)3月のことであった。この間、1931年の満州事変、翌年5月の五・一五事件、1933年3月の国際連盟脱退と、国家は徐々に戦争への道を歩み始め、1937年7月の日中戦争の開始、そして1941年12月の日米開戦に繋がってゆく。京都市美術館はまさに戦争の時代に構想され産声を上げたと言ってもよいだろう。

戦時の展覧会(貸館と公募展)

 開館後の大礼記念京都美術館では、第14回帝展を皮切りに毎年の帝展をはじめ、京都市主催の市展といった大規模な公募展に加え、貸館として公募団体展も次々に開催され、展覧会の開催場所としての機能を十分に発揮し始めた。ほぼ切れ目なく開催された展覧会のリストを見るとき、展覧会名に戦時を思わせる言葉が現れるのは、1939年11月開催の「橋本関雪聖戦記念画内示展」が最初である。これは10月に東京・三越で開催された「橋本関雪聖戦記念画展」の言わば里帰り展で、《軍馬二題》《戦塵》《焼土春かへる》など8点からなり、《焼土春かへる》に加え、7点の下絵は同年に美術館の所蔵作品となった。

 1940年代に入ると、貸館展あるいは1日限りの内示会などの名称に戦時を明瞭に示す言葉が多く現れ始める。1942年2月、「陸海軍献納画内示会」、1943年3月「帰還将兵文化奉公会美術展覧会」、5月「京都日本画連盟舞鶴海軍病院献納画展覧会」、6月「戦艦献納工芸美術展覧会」、10月「学徒出陣記念第五十四回鞍馬画会展覧会」、11月「大日本書道報国会京都府分会軍人援護書道展」など、美術家が国家の向かおうとする方向に「献納」という形で賛助する姿勢を見出すことができる。さらに国策への協力を明確に示すものとして、1944年3月の「第2回大東亜戦争美術展覧会」と5月の「陸軍美術展覧会」の開催が挙げられる。これらは1939年4月に結成された「陸軍美術協会」を母体とした展覧会で、「協会」はすでに開始されていた従軍画家の活動を下敷きに、軍部と画家の連携を密にすべく陸軍省情報部と主に洋画家の共同により結成され、副会長を藤島武二が務めていたものである。「大東亜戦争美術展覧会」は、1942年12月に日米開戦1周年を記念して朝日新聞社主催で東京府美術館を会場に第1回展が開催され、第2回展は翌1943年12月の東京開催の後、翌年に京都展が開催され、海軍の作戦記録を中心に370点が展示された。5月23日~6月11日開催の「陸軍美術展覧会」はこれを補完するものとして陸軍の作戦記録の描写作品を中心に開催されたものと思われる。

 開館以来続けられてきた貸館事業は、「陸軍美術展覧会」に続いて開催された洋画の「華畝会展」(1944年6月9日~18日)、日本画の「第6回大日美術院展覧会」(6月15日~26日)を最後に、休止を余儀なくされる。7月1日からは23日までの会期で京都市主催の公募展「平安神宮御鎮座五十年、平安遷都千百五十年奉祝京都市美術展覧会」が開催されるが、

美術館に保管されている『守衛日誌昭和19年』を見ると、(7月4日)の項には「警戒警報(午前9時)に付き休館す」の記述が現れ、翌5日も「前日に引き続き、警戒警報発令中に付き開会中止す」と記述され、時局の緊迫が伝わる(※1)。

工場、検査場としての美術館
(図版1)『守衛日誌昭和19年』
(図版2)『守衛日誌昭和20年』

 『守衛日誌昭和19年』(図版1)(8月28日)には、「山寅大工一名、人工一名、103-105号室間仕切り取除き作業をなす」とあり、展示室を作業所に転用する準備が始まったことが知られる。(9月21日)には、「本日十時より、中外火工大陳列室に荷物運搬準備す」と記され、この日以降「中外火工品株式会社」による「風船爆弾」の製作場所として、美術館が使用され始めたことがわかる。(10月15日)には、「中外火工、午前9時より11時までの間、大陳列室に於て、学徒動員受入式を挙行す」とあり、この日より工場としての稼働が開始された。紙製の気球に爆弾を取り付け、偏西風に乗せて北米大陸に落下させるという軍事作戦のための製作所として美術館の展示室が使用されたわけである(※2)。当初大陳列室と北館1階の103-105号室が使用されたが、『日誌』の記載を見ると11月末には南館の106-110号室も使用されているようであり、さらに1945年1月初旬からは南館2階の207、209、210号室にも拡張されたとみなせる。『守衛日誌昭和20年』(2月9日)(図版2)には「105号室、乾燥の為係員二名徹夜す」とあり、この後も度々「徹夜す」の文字が見られ、作業の過酷化を感じさせる。この「中外火工」による風船爆弾の製造は3月16日まで継続された。

 その後3月21日まで作業所の撤収が行われたが、『日誌』(3月21日)には「国際航空係員入館、…航空機材搬入」の文字が見られる。「国際航空」とその作業の詳細は不明だが、おそらく宇治市大久保にあった飛行場に併設して航空機製造を行っていた「日本国際航空株式会社」のことかと思われ、「中外火工」の作業所と同じ場所を使用して、何らかの部品製作が行われていたことが推測できる。「国際航空」の文字は6月16日まで見られるが、その後これに代わり翌17日以降は「興国製作所」という記載となり、8月15日の終戦後も9月18日まで記載が続いているが、こちらも会社および作業内容は現在のところ不明である。ただ最初に現れる記載が、「国際」を訂正して「興国製作所」と記していること。最終搬出日9月25日の記載で「国際航空会社」と表記していること、また「大久保より来館」という記載があることから、「興国製作所」は「国際航空株式会社」の別名である可能性も否定できない。

 「中外火工品株式会社」「日本国際航空株式会社」「興国製作所」と1944年9月より1945年8月まで、美術館内で軍事的物品の製作が行われていたわけだが、これと並行して1945年1月5日より、南館1階の106-110号室と南館2階の208、213号室および貴賓室が、「陸軍航空適正検査場」(少年飛行兵検査場という記述も見られる)として使用されていたことも確認できる。

戦時下の常設展と終戦

 所蔵作品の展示は1944年に「常設陳列一月」、「常設陳列二月」に続いて「常設陳列八、九月」を実施した後、9月15日からは「第1回在住作家作品常設展」と名称を変え、所蔵作品に京都市在住作家からの借用作品を加えた展示を実施し、1945年9月1日~11日の「第10回展」まで継続的に実施された。開館時の宿願であった、所蔵作品による「常設展」は、開館1年半後の1935年1月の「本館所蔵品陳列」が最初であり、その後もおよそ春と秋のみの開催であったが、非常時における貸館休止によって、ほぼ年間通じての「常設展」が実現したのは皮肉なことであった。

(図版3)「第8回在住作家作品常設展」挨拶文

 1944年9月から風船爆弾工場や航空機工場、さらには軍の兵士の検査場が美術館展示室の過半を占めていた中、所蔵作品を中心とした展示の継続には、戦時にあっても美術館としての活動を存続することへの意志を感じざるを得ない。伝聞ではあるが、当時学芸員として着任した岡部三郎は、「展覧会がなければ、館が全面的に軍に占有されてしまうと思い、ともかく展示を続けた。」と語っていたという。風船爆弾工場が稼働を始めた1944年9月から名称を新たにして出発したのもこの意図と無関係ではないように思われる。常設展に使用された展示室の記録は残されていないが、工場および検査場で使用されていなかった場所は、1階では北館西側の101と102号室、2階は、北館の201-206号室であるが、常設展示の作品数からすると北館2階の6室が用いられたと推測できる。1945年4月1日から始まった「第8回在住作家作品常設展」は、並行して5月20日から開催された「京洛工芸家作品茶具展」と同様に6月19日までの会期が想定されていたとみなせるが、6月1日付と思われる挨拶文には「当今戦局緊迫化し、当館開館不可能なる情勢と相成候間、本日1日より何分の沙汰あるまで閉館可仕候」とあり、「常設展」とともに5月末で打ち切りとなっている(図版3)。この2か月間の「常設展」の入場者は1,619人であった。

 6月、7月は休館となり、『日誌』(7月6日)には、「本日正午より本館所蔵品の一部分疎開の為搬出す、係員」との記述があり、当時の所蔵作品252点中、最重要作品約50点を嵯峨大覚寺へ疎開したことが知られており、この日の実施であったことが確認できる。館に残された作品を選んで、8月1日から再び「第9回在住作家作品常設展」が開始される。「時局緊迫化」のなかにも拘わらず展示を再開しているのも驚くべきことだが、さらに8月23日までの会期中合計62人の入場者があったことにも驚かされる。8月12日大人3人、13日無料1人、14日大人2人、そして8月15日は0人であったが、翌16日から18日まで各日1人ずつ、19日3人、20日7人、その後23日は正午より休館しているものの、午前中に13人が訪れている。第二次大戦末期、軍需工場、兵役検査所と併設し、日々警戒警報、空襲警報が発せられる中での常設展の開催と、僅かではあるが展覧会鑑賞のための来館が続いていたことには、「日常」の存続に向けた美術館関係者の意地と矜持を感じるとともに、それに呼応する市民の行動に、したたかにまた超然と「日常」を維持する京都固有のメンタリティーを見出すことができるのかもしれない。

終戦直後から占領まで

 8月23日午前で「第9回在住作家作品常設展」を終えた後、休館となって翌24日から28日まで、『日誌』には「本館周辺の防空壕埋めに従事す」とある。場所、規模共に不明だが、美術館敷地内に「防空壕」が設置されていたことが知られる。9月1日~11日「第10回在住作家作品常設展」、9月15日~10月30日には「現代美術展」と名称を変えて常設展を引き続き開催するが、開催中の9月25日、26日、27日の『日誌』には「米軍進駐休館す」という記述が見られる。アメリカ第6陸軍第1軍団と第33師団が最初に京都に入ったのは9月25日だとされる(※3)。美術館自体が占領されたわけではないが、米軍統治の開始に際して交通の遮断等の理由から美術館も臨時的に休館としたとみなせる。そのような状況下でも「常設展」を10月30日まで開催し、11月1日から「祇園山鉾織物展」、また11月21日~12月10日までの会期で京都市主催の公募展「第1回京都市主催美術展覧会(京展)」を開催している。1946年に入っても、1月に「古今人形歌留多双六展」、3月からは「在住作家作品常設展」「京都初期水彩画展」「日本女装変遷展」を開催していたが、3月22日をもって3つの展覧会は終了している。そしてその1週間後の1946年3月29日から、美術館は事務棟を除いて米軍の占領下に置かれ、1952年4月30日の接収解除まで約6年間の接収期を迎えるのである。

 接収期においても、「京展」「日展」等の公募展は、丸物や大丸といった百貨店の会場を借りて開催するほか、美術館敷地内で接収を免れた事務所棟(主に2階)を使って美術館活動を継続した。展覧会は、洋画を中心とした「常設展」の定期的な開催に加え、「泰西名画展」、「富岡鉄斎展」、「入江波光展」などの自主企画展を実施し、また「走泥社」「匠会」「転石会」など戦後京都の美術・工芸史に重要な役割を果たすグループ展にも会場を提供している。美術館という器を欠いたなかでの常設展、企画展、公募展、貸館などの展覧会活動の継続は、関係者の粘り強い尽力がもたらしたものに違いない。大戦末期から接収解除までの延べ約8年間は展示室を欠いた美術館ではあったが、細々とではあったが美術館としての活動は途切れることなく着実に継続されていたのである。

(※1) 現在確認できる『守衛日誌』は、「昭和8年」、「昭和18年」、「昭和19年」、「昭和20年」の4冊である。

(※2) 中外火工株式会社による風船爆弾製造については次の論文が詳しい。松井かおる「風船爆弾製造と学徒勤労労働員-風船爆弾関係文書を中心に-」『東京都江戸東京博物館研究報告第16号』2010年3月。

(※3) Report of the occupation of Japan, Sixth United States Army, 22 September 1945-30 November 1945, Būnju-do, 8th U.S. Army printing plant, 1946 p. 29.