2026.10.02

HISTORY #02「たまり場」イントロダクション たまり場考——「サードプレイス」と「無縁の原理」|佐藤守弘

たまり場考——「サードプレイス」と「無縁の原理」


佐藤守弘(視覚文化・写真研究者)



 「たまり場」といって思い出すのは、僕が籍を置いていた東京の大学の学舎の地下にあった音楽サークルの部室のことだ。大学当局からは公認されず不法占拠していたと聞いていた、汚い、魔窟のような部室には、いつも学内外から誰かがいて、無聊をかこちつつ、やくたいもない話をしていた。そのサークルの先輩だったTheピーズの曲、「とりあえずここはいい気持ち」(『グレイテスト・ヒッツ Vol.1』ビクター、1989)に歌われているような自堕落な生活をしていた僕は、「とーちゃんかーちゃん」が働いて稼いだ金で暮らし、「時にはうしろめたい気持ち」になりながらも、目の前の〈いま・ここ〉の心地よさに溺れていた1 。そんな僕を迎えいれ、甘やかしてくれたのが、その部室だった。
 一人暮らしをしていて、講義にもろくすっぽ出ていなかった——そして結果的にその大学を卒業することはなかった——僕にとって、そこは生活のほぼすべてだったのだが、実家ぐらしの友人たちにとっては、そこは第一の場所である家庭とも、第二の場所である大学の教室とも異なる、それこそ社会学者レイ・オルデンバーグが「第三の場所(サードプレイス)」と呼んだ場所だったのだろう2 。そこは、血縁、地縁、そして社縁などのさまざまな「縁」から離れた素の自分として、たむろする他者たちとの交流を展開できる「とびきり居心地よい場所」だったはずだ。

大窪たかひろ《ブリティッシュ・ビート研究会 部室》2001年、モノクロフィルム(Kodak Tri-X)撮影/デジタルスキャン、出典:写真集『Underground Waseda for Kindle』3


 このように縁から切れること——すなわち「無縁」——に可能性を見出したのが歴史学者、網野善彦であった。日本中世史を専門とする彼が、著書『無縁・公界・楽』の冒頭で、自身の子どもの頃の遊び「エンガチョ 」を例として持ち出しているのは興味深い。彼は「エンガチョ4」の「エン」が「縁」であり、そこには「縁切りの原理」がはたらいていたのではないかと推測した上で、それが「もともと「縁」とは無関係なもの、「縁」を拒否したものの強さと明るさ、その生命力を示す5 」とその肯定的な面を発見している。網野は同書で、日本の中世から近世にかけて世俗の権力から切り離された「無縁」の場所が果たした役割を追究していくのだが、そこでは中世ヨーロッパにおける教会や聖地などの公権力が及ばない場所、すなわちアジール(聖域/避難所)と共通するような、身分を超えた自由や平和が成立していたと説く。もちろん多くの場合、聖的な場所であった中世の「無縁」空間と、徹底的に世俗的な近現代のたまり場を同列に扱うことは非歴史化の誹りを受けることになろうが、そこになんらかの「自由」があったことは確かだろう。


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 さて、「たまる」という言葉について、Googleの日本語辞書(Oxford Languages)は「物・人・事が、はいって来るだけで出て行かず、または、出るより、はいる方が多くて、そこに集まりとどまる」というとても細かく、そして興味深い語義を掲載している。そこで「たまる」のが金ならいいが、それが水だと淀んで腐ってしまう。そのように「たまる」という言葉には、ポジティヴとネガティヴの両方の意味があるし、そしてそこから派生した「たまり場」という言葉も当然同様である。
 『読売新聞』の記事データベース「ヨミダス」を検索してみると、1951年には、殺人事件が起きた浅草のミルクホールを「不良やチャリンコ6 のたまり場」とネガティヴに書いている(1月1日付朝刊)し、62年にも新宿で「グレン隊がたまり場近くで常習的に行うおどし、暴行事件」が増えてきている(10月11日付夕刊)とある。ただ1976年になると、東京・国立の公民館で地元の青年向けの企画としてコーヒーハウスが開かれ、それが「若者のたまり場」を目指していて、それが「手づくりの人間関係を求める場」となっている(1月24日付朝刊)とポジティヴに評している。あるいは1980年には、当時増えてきていたホビークラフトの店が、デコパージュなどの材料や道具を売るだけでなく、それを趣味とする人びとの「たまり場」という性格を帯び、それが人びとの交際の場を広げるというはたらきがあることが指摘されている(7月25日付朝刊)。このように、確たる理由は分からないものの、1970年代後半以降、「たまり場」という言葉に家庭でも職場でも得られない人間関係を築く場という前向きの意味が前景化してきたことが伺い知れる。
 時計を巻き戻してみよう。『日本国語大辞典』をひもとけば、「たまり場」という言葉が1930年代にすでに使われていたことがわかる。辞典が引いているのは、高見順が左翼青年の転向を描いた小説『故旧忘れ得べき』(人民社、1936)7 の「夜とも成れば共々彼等のたまり場の、〔中略〕白山上の南天堂の二階などに行き」というくだりである。小説は、そこで夜ごとにダダイストたちが酒を呑み、議論に花を咲かせていたと語る。現在も続く東京の書店、南天堂書房の二階は、当時、喫茶店/レストランで、そこはマルクス主義者、アナーキスト、ダダイストたちの「たまり場」になっていたのだ。


岡本一平《カフヱとモダン》、『肉筆漫画 開国六十年史図絵』中央美術協会、1927年、ホノルル美術館所蔵、出典:Wikimedia Commons


 ここからは、この時期、とくに関東大震災後の近代都市・東京で、「カフェー」をはじめとするさまざまな場所が、縁に縛られない、新しい種類の人びとのたまり場として登場してきた様子が伺い知れる。日本におけるカフェーは、1911年に銀座で開業したカフェー・プランタンがそうであったように、都市の知識人階層のサロンとしてできあがる。しかし、関東大震災後の東京では、それらは大衆化し、女給たちによる接客が売りとなっていく。その一方で、それらと一線を画す喫茶店、あるいは「純喫茶」——たとえば新橋の茶房リドーなど——は、カフェーに比べて「気軽に訪れることのできる都市の中の"たまり場"として認識されていた」と初田亨は述べている)8 。日本各地から人びとが集まる20世紀初頭の近代都市では、「新中間層」と呼ばれるホワイトカラーの俸給生活者たちが、郊外の家から都心に通うという新しいライフ・スタイルの中で、かつての人びとを縛っていた血縁や地縁といった「縁」から切り離されていった。そうしたある意味で無縁の人びと——主として男性——が、会社でのつながり、すなわち社縁からも解放されて憩うことができる場が、カフェーや純喫茶といった「サードプレイス」であったと考えることができるかもしれない。


《茶房リドー》、『アイ・シー・オール』1935年8月、出典:初田亨『カフェーと喫茶店』INAX出版、1993年


 さて、近代日本における喫茶文化が欧米のそれを輸入したものだったことは言うまでもない。その淵源は17世紀後半から18世紀にかけてイギリスで流行したコーヒーハウスにたどることができる。そうしたコーヒーハウスでは、ある程度身分を超えた討議が行われることがよくあり、そこに近代的な「市民的公共圏」の成立の契機を見たのは、哲学者ユルゲン・ハーバーマスだった9 。とはいえ、この種の店の先駆けだった18世紀末ロンドンのロイズ・コーヒーハウス10 を描いたイラストレーションを見ると、そこで新聞を手に議論に花を咲かせているのは男性ばかりで、女性たちはそこに飲食物をサーヴする役割しか果たしていないことが見てとれる11 。20世紀初頭の日本の喫茶店でも、モダン・ガールなど一部の女性を除いては、状況は似たようなものだっただろう。というのも、「新中間層」と呼ばれた俸給生活者のライフ・スタイルとは、郊外から都心に働きに出る男性と家庭を守る「主婦」としての女性というジェンダー・ロールの分担を確立するもので、そうした主婦たちにとっては「サードプレイス」の前提となる第二の場所——会社——さえなかったからだ。


《船舶代理店ロイズのコーヒーハウスで会う船主と貿易業者たち》1863年、出典:ヴォルフガング・シヴェルブシュ『楽園・味覚・理性——嗜好品の歴史』法政大学出版局、1988年


 一方で、たまり場とジェンダーの問題を考える上で興味深い事例がある。1978年結成の女性だけのパンク・バンド、水玉消防団についてのドキュメンタリー「水玉消防団ヒストリー」を記した吉岡洋美は、そのバンドがもともと音楽を目指して結成されたのではなく、新宿2丁目にあった「女たちが集える場」として作られたカフェ、ホーキ星の常連であったフェミニストたちが、「カルチャー」的な活動のひとつとしてつくりあげていった様子を詳しく伝えている12 。歌手/俳優で、女性解放運動に深く関わっていた中山千夏も出資者として名を連ねていたホーキ星は、「女性のための女性によるカフェ」であった。その時代は、ウーマン・リブ、あるいは「第二波フェミニズム」が台頭してきていたとはいえ、まだまだ「女性が普通に生きていくだけで出会う理不尽さ」を常に味わっていたと水玉消防団の天鼓は語る。ホーキ星では、他の客との論議の末、喧嘩に近いような状態になることもあって怖さも感じたものの、そこに居心地のよさ、面白さを感じたという。ジェンダー的なロール・プレイを強いられる世間と隔絶したその場所は、女性たちにとっての、まさに無縁の解放の場、アジールであったのだろう。この点に関しては、網野が中世日本における女性というジェンダーの「無縁性」を指摘していることには注目すべきであろう。多少、本質主義的な書きぶりも見られるものの、彼が女性というジェンダーの「非権力的な特質」を見出していることは興味深い13 。

水玉消防団「ジークフリードはジッパーさげて」、『乙女の祈りはダッダッダッ!』筋肉美女レコード、1981年


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 ではたまり場の現在とはどのようなものなのだろうか。それに対するきっちりとした現状認識を持ち合わせている訳でも、明確なヴィジョンがまとまっている訳でもないが、思いつくままに記していきたい。
 私は以前、コンビニにおけるコミュニケーションについて考察したことがある14 。コンビニとは、対人的なコミュニケーションが最低限に押さえられている場所である。そこでは店員と会話を交わす必要はなく、毎日通っても「常連」となることはほとんどない。社会学者、田中大介によると、コンビニは自己/他者との間に隙間を精妙につくり出すことで、個人を地域や家族から切り離し、「解放」する空間になっているという15 。ということは、かつて喫茶店に代表される空間が果たしていた無縁の機能をコンビニが代替することになっているのかもしれない。ただし、常連とならないということは、少なくとも都市部においてはたまり場となり得ないということになる。さらにいえば、たまり場に特有の濃密な対人的コミュニケーション自体が、現在においては必要なくなっているのかもしれない。
 それだけではない。インターネット、ソーシャル・メディアが発達し広範に浸透した結果、物理的な場とそこにおける人間関係の比重が軽くなってきてしまっているのは論を俟たないことだろう。そうした場の喪失に拍車をかけたのがあのパンデミックで、それは場に紐づくさまざまな企てをことごとく機能不全に陥らせてしまった。このような状況は、たとえばトライブ的なサブカルチャーだったり、クラブに代表されるナイト・ライフだったりに大きな影響を与えたと考えられるが、たまり場に対してももまた同じだろう。
 とはいえ、「トー横」や「グリ下」と呼ばれる「界隈」は、それがもたらす社会問題はひとまず置いておくとして、無縁を求める若者たちにとってのアジールのようなものとして機能しているようだ。というのも、匿名のネット空間でさまざまな縁を切ることは簡単であっても、スクリーンから目を離せば、すぐそばに家族の成員がいるということがある場合も少なくないだろうし、やはり縁と物理的に距離を置かなければいけないことも往々にしてあるだろうから。
 僕があの部室を離れてから40年近く経ってしまった。あのアジトのようなサークルの部室が集まっていた地下空間も、建物とともにすでにとり壊されてしまった。とはいっても、日々雑事に追われながらも、好きな仕事をしていて、十二分に充実している僕にとってはもはやたまり場は必要ないのかもしれない。今はただ、あの日々を懐かしく思うだけだ。だからといって物理的なたまり場をノスタルジアのなかに格納していいとは思わない。切迫した事情がある人もいるだろうし、それほどでもなく、ただちょっとの間、世のしがらみから自由になりたい人もいるだろう。そんな人びとのために、たまり場は都市の隙間で生き延びていくに違いない。それが現在どんなかたちなのか、そしてどのようなかたちになっていくのかは僕には分からないが。




補遺:京都とたまり場からのブックガイド

 本文中では京都の状況について触れることが叶わなかったので、補遺として、京都における「たまり場」を考える際に参考になる書籍をいくつか紹介してみたい。

 まずは、戦前の「カフェー」文化については、斎藤光『幻の「カフェー」時代——夜の京都のモダニズム』(淡交社、2020年)が挙げられるだろう。東京や大阪におけるカフェーについての研究は数多いが、本書は近代都市・京都にフォーカスして、カフェーから喫茶への移り変わりを丁寧に追うことで、思想、風俗、ジェンダーといった諸問題を浮き彫りにしている。

 続いては樺山聡『京都・六曜社三代記——喫茶の一族』(京阪神エルマガジン社、2020年)。戦後まもなく開業し、現在も続く名店の三世代にわたる歴史を描き出す好著である。六曜社を軸にしながら、戦後の復興からアンダーグラウンド文化の全盛期、そして現代に至る京都の戦後文化史を広い視点で捉えていて、上記『幻の「カフェー」時代』と併せて読めば、京都の近現代都市文化史を広く把握することさえできる。

 対象とする時代は遡るが、林屋辰三郎『町衆——京都における「市民」形成史』(中公文庫、1990年)も押さえておきたい。応仁・文明の乱後の京都で富裕な商工業者を中心とする「町衆」16 が自治を行うものの、それが近世的権力に取り込まれていく過程を追いながら、それが「民主・自由・平等」を旨とする近代的「市民」の先駆けとしてみなしうると示唆する大胆な著作。網野善彦の「無縁」——自治都市も含む——と突き合わせて批判的に読むのも興味深いし、京都という都市を巨大なたまり場としてみなす視点にもつながっていくかもしれない。




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1 Theピーズ『グレイテスト・ヒッツ Vol.1』ビクター、1989年。

2 レイ・オルデンバーグ『サードプレイス——コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』忠平美幸訳、みすず書房、2013年。

3 撮影者の大窪たかひろ氏は、早稲田大学在学時の2001年に地下部室がとり壊されることを知り、「それが無意味なものとして“なかったこと”にされてしまうのは悔しい」との思いから、学内のサークル部室を撮影することにし、翌年の早稲田祭で展示した上で、写真集『Underground Waseda』を自費出版することにしたという(2019年には再編集・増補されたKindle版が公開された)。撮影・展示・出版の経緯が記されたテクストからは、「たまり場」としての地下部室がもっていた「空気」が濃厚に伝わってくる。大窪たかひろ|じぶんメディア「【NHK漂流記#3】『売れない写真集』が僕をNHKに連れていった」早稲田地下部室写真集」、『note』、2025年7月25日。

4 私の子どもの頃の京都では「ベンショベンショ、鍵閉めた」と言っていた記憶があるが、関西では「ビビンチョ」とも言うようで、それがさらに転訛したのが「ベンショ」であったのかもしれない。

5 網野善彦『[増補]無縁・公界・楽——日本中世の自由と平和』平凡社ライブラリー、1996年、13-20ページ。

6 「自転車」の意ではなく「子どものスリ」を指す隠語。

7 高見順『故旧忘れ得べき』小学館、2022年。

8 初田亨『カフェーと喫茶店——モダン都市のたまり場』INAX出版、1993年、40ページ。

9 ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換—市民社会の一一カテゴリーについての探究』細谷貞雄、山田正行訳、未来社、1994年、52-53ページ。

10 後に世界最大の保険会社へと姿を変えて、現在も存続している。「ロイズ」(日本コーヒー文化学会『コーヒー歴史年表』)を参照のこと。

11 ハーバーマスも喫茶店の客がもっぱら男性だけであったことを指摘している(前掲書)し、歴史家ヴォルフガング・シヴェルブシュはコーヒー・ハウス文化が「父権的」であったと述べている。シヴェルブシュ『楽園・味覚・理性——嗜好品の歴史』福本義憲訳、法政大学出版局、1988年、73ページ)。

12 「水玉消防団ヒストリー」の第1回「1976年 新宿「ホーキ星」」、第4回「1977年魔女コンサート」を参照のこと。

13 網野前掲書、190-200ページ。

14 佐藤守弘「眼視の力——コミュニケーションとしての商品展示」、『文化学年報』73、2024年3月、177-204ページ。

15 田中大介「現代日本のコンビニと個人化社会——情報化時代における「ネットワークの消費」」、『日本女子大学紀要 人間社会学部』26、2016年5月、25-39ページ。

16 「町衆」は、林屋も現代の多くの人も「まちしゅう」と訓じているが、文献学的な知見によると「ちょうしゅう」と読むのが正しいという。




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