谷道に雪を踏み抜く僅かな音と時折吹く風の音だけが許されて通過していく…
雪は不必要だと判断したすべての音を吸収し、静寂の山をそこに拵える…
アーティストの井上亜美はカメラを猟銃に持ち替え、今は雪山を猟犬と共に歩いている。
そんな彼女が足を止めたのは、谷道を横切る鹿の足跡を発見したからだ。
真剣な眼差しを向けるのは、見間違い見落としが狩りの結果に大きく影響するからである。今日の狩りはイノシシ狙いだ、いくら積雪が助けてくれるとは言っても、同じ偶蹄目の二ホンジカとイノシシは見誤りやすい。だからといって彼女が僕に確認を求めてくる様子はない、彼女はもうそんな技術レベルではないのだ。
ズザッ… ズザッ…
…ザッ …ザッ。
足跡を追跡してその足跡の主の生態を想像し楽しむアニマルトラッキングと呼ばれる遊びがある。その元になったのは猟師の見切り技術と言われており、僕はその技術の面白さ奥深さに魅せられて狩猟の世界に入った。
痕跡から獲物の行動を予想し、猟果に繋げるという実力がものを言う世界。
御託を並べる人も、高価な道具を自慢する人も、昔話しかしない人もいる…
だけど一緒に山に入ればその人の実力はすぐにわかる、それが狩猟の世界。
分かりやすい世界。
ッフン、ッフン、ッフン、…
先ほどの新しい鹿の足跡に僕の引く猟犬が反応している。
周知のとおり猟犬たちは嗅覚に優れる。臭いの新旧を嗅ぎ分け、視覚に頼りがちな僕たち人間に足りない部分を補ってくれる。
スタンプのように綺麗に残った足跡であっても日数の経ったものには興味は示さない、一つ一つの足跡に鼻を突っ込み丁寧に確認するのなら2~3日経った跡、足跡を繋ぐ様に次から次へと進んでいくなら1日以内、足跡には目もくれず顔を上げてグイグイ行きたがるならすぐ近くに獲物の存在を確信しているということだ。リードにつながれているので仕舞いには後ろ足で立ち上がるように振舞う。
いつも猟犬たちが教えてくれる。
僕たちには見えない世界を…。
ここから勝手に狩りを始めるわけにはいかないので、尾根を目指して先を急ぐ。狩りでは計画、言うなれば捕獲までの組み立てが大切なのだ。
先を行く井上はもう尾根にたどり着きそうだ、こちらものんびりはしていられない。上がる息を抑えて急ぎ後を追う。
あと少し。
…ザッ …ザッ。
尾根までくれば一安心だ、すでに山は勢子とタツマに囲まれている。無線で連絡を取り、タツマの様子を確認する。タツマの準備が整うまで、尾根で待機することもしばしばだ。
尾根を越える風が抜けていく。
冷たい風は気持ちよく、汗ばんだ体を冷ましてくれる。
一息ついてから、再び風向きを確認する。
鼻の良い猟犬であっても風上にいては臭いを取ることなどできない、尾根に吹き上げてくる風を確認すると犬たちも鼻を上げて風に漂う獲物の臭いを確認したようだ。
「モノは近そう、犬の引きがすごい。」彼女が口を開いた。体重を掛けて何とか身体ごと持っていかれないようにこらえている。
猟犬たちは風が吹けば引っ張ることを止めて、再び高鼻を取る。風に乗って新しい情報が次々と寄せられてくるのだろう。
猟犬たちは放たれるのを今か今かと待ちわびているようだ。
おそらくは確信しているに違いない、獲物の居場所を、自分たちに託された役割を、その先の猟師たちの仕事を。
>>> 大道良太_Column 1「跡見」
>>> 大道良太_Column 3「猟欲」
大道良太 おおみち・りょうた
1979年京都市生まれ。2002年京都精華大学人文学部卒業。日頃、自動車整備士や養蜂家として働きながら、狩猟をおこなう。
京都府猟友会の支部長を務める父の下、京都北山にて伝統的な巻き狩り猟を5年間修行したのち、猪犬を用いた単独猟をはじめ、全国で狩猟の見聞を広める。大日本猟友会狩猟指導員、京都府緑の指導員などを兼任。
おもな活動に、環境省主催「ビギナーのめの狩猟講座」メインコメンテーター、総合地球環境学研究所「熱帯泥炭社会プロジェクト」植林地害獣捕獲アドバイザーなど。論考に『犬からみた人類史』(勉誠出版、2019年)がある。
Profile photo by Ami Inoue