晩夏のある朝、桂川の土手上の道をバイクで走っていた時、道を走っているのに土手の周囲に広がっている草むらの中に自分が浮かんで走っているように感じたことがあります。朝日が強く照りつけてくるのと同時に、光が草むらから膨れ上がり、蠢いているようで、視界の中の木々、近づいてくるはずの鉄橋や構造物との距離感がよく分からなくなり自分の座標が狂ってしまうようで何とも言えない怖さを感じたことがあります。
薄雪が積もった日、山沿いの道で木立の隙間から下草や灌木に光りが差し込んでいるのを見たとき、照らされた葉が光っているのか、はたまた吹き溜まった雪を見ているのか、とっさに判断できなかった瞬間があります。
蒸し暑い梅雨の夕暮れ時、寺の大木を眺めていると夕闇が迫る中、段々シルエットが量感を持って立ち上がっていき、自分の上にに落ちてきそうで、あたかも湧き立つ入道雲を見るかのようで、嵐の前触れのような不穏さを感じることがあります。
自分の中に降り積もっているはずの経験や知覚、時に確固たる、とも思えるものを拠り所にしているはずなのに風景の中に身を置くとそれが揺らぐ瞬間があります。強烈な違和感があると同時にでも不思議と自分の身体を取り戻したような安堵感があるのも確かです。時に生き物のように蠢く風景と対峙したとき、分からなさと同時に自分の身体を見つめ直しているのかもしれません。
自分の身体感から溢れ出す体験や、人の営みとは別の生命力に触れたと感じる時、そこにある生々しさを目に見える形にして確かめたい、そうした願望が人が絵を描く原初であると考えています。その原初の発露となりうる風景が先の世界にも息づいていることを願っています。そして、自分の体験を見つめ直すと共に、自らのライフスパンを遙かに超えたスケールで繋がる生命の一端に触れうる風景を描いていけたらと考えています。