舞台芸術

「都市と演劇」

2012.12.06

松本雄吉+三浦基+橋本裕介

「都市」の生成のプロセスと常にシンクロしてきた近代以降の「演劇」。いま、実作者にとっての「演劇作品における都市」と「都市における演劇」とは。大阪と京都をそれぞれ拠点に、世界各地で活躍する二人の演出家、松本雄吉(演出家、舞台美術家/維新派)と三浦基(演出家/地点)のお二人にKYOTO EXPERIMENTプログラム・ディレクターの橋本裕介が話を聞きました。

重層的になりたつ都市へのアプローチ

橋本:今回、なぜおふたりに来ていただきたいと考えたかというと、演劇の活動をしていくなかでは、日本の都市を俯瞰したときに東京という中心があって、それを取り巻くようにして地方都市があるということを意識せざるを得ないなかで、おふたりは意識的に「中央ではない都市」を選んで活動されているということ。また、実際に演劇を組織する中で、維新派は巨大な野外美術を製作し、さらに公演をするときに必ず屋台村を出現させて、劇の世界とつながるような、フィクションとも言える特別な空間が現実の町に浸食していっている。作品の中身だけでなく、演劇の組織の仕方についても、都市のことを考える視点が多分にあると考えて、松本さんにお越しいただいています。
いちばん最近の作品『夕顔のはなしろきゆふぐれ』[2012年7月初演、会場:デザイン・クリエイティブセンター神戸(旧神戸生糸検査所)]は、副題に「Perspective play for City」とつけられていますね。それは訳すと「遠近法による都市のための演劇」。大変興味深く拝見したんですけれども、舞台美術の装置自体が、遠近法や、遠近法による錯覚みたいなものを具体的な演出効果として取り入れられており、目の覚めるような体験だったのですが、それだけでなく遠近法という言葉そのものが、近代的な都市を規定する、ある一点があってそこから見た世界、という意味が含まれている。松本さんが遠近法をどういうふうに捉えているのか、都市のことと絡めてお話しいただけますか。

維新派『夕顔のはなしろきゆふぐれ』 2012年 デザイン・クリエイティブセンター神戸(旧神戸生糸検査所)撮影:井上嘉和

松本:維新派では、都市論というか、都市をめぐる三部作というのをやったんですよ。僕が30代後半くらいから始めて、今に至っているんだけれども。都市観察論があったり、都市未来論があったり、都市の生成とか、ひとつの歴史みたいなことをやったりとか、色々手を変え品を変えやってきたけど、この歳になって、明らかに都市へのまなざしが変わっているということがわかってきた。結果的に言えることは、都市というのは多層的だなと。複雑に重なっている。ひとつには地形。大阪だったら、一番下にはナウマン象の足跡化石があるような層があって、その上には縄文の層、その上は中世の層があって、近代だと、科学の発展期といえるような層や戦争の焼け跡もそう。本当に地層になっている。そこで強く感じるのは、在日(外国人)の人。朝鮮人だけでなく、今や中国の人も多い、ブラジル人や沖縄の人もいる。そういった民族流入の層というのは、この時期にこう来たというわかりやすい積み木ではなくて、それぞれがカーブを描いている層なんですよね、複雑な。おそらく今、都市にいてどういう実感を持っていますか、自分は都市の中でどういう地層にいますか、というのは一言で言えないようなものを持っていると思う。どのへんの層から、自分の居場所を見つけて、都市を演劇化するとか、都市で演劇をやるとか、というところに結びつけていくのか。その時々によって、入り方が違って、やり方が変わってきている。自分の場所を探し、あるいは自分の場所の不確かさの確認ということと、大阪とか、都市というものの実感というんですかね。長いこと都市論というものを大阪でやり続けて、根幹にそういったテーマを、身体的に自分を巻き添えにしていこうというのが、僕の中であるのかなと、いま話を聞いて思いましたね。

橋本:公演を観た人の反応はいかがでしたか。様式化された部分への高い評価というのを、多く耳にしたような気がしたんですけれども。

松本:そうですね。今回のような様式的な、幾何学的な模様でやるというのは、何となく自分の中の叙情的な考えを叙事的にやりたいという気があったかな。そのへんは、お客さんにはよくわかってもらえたみたいで。あの舞台で言うと、俳優はかちっとした芝居をやっているのではなく、どちらかというと緩い。そういう組み合わせ方が都市に切り込む、ひとつの方法ではないかなと思います。あれだけじゃなくてこれから色々試してみたいと思っているけどね。

日本の近代文学の作家から意識する「近代」

橋本:三浦さんにもお話を。三浦さんは意識的に東京から京都に移動され、しかもそれは単独ではなくて、劇団のメンバーと一緒に京都に来ているということが、非常に重要だと思います。三浦さんはKAATでの「NIPPON文学シリーズ」[※1]や『CHITENの近現代語』[2011年初演、会場:豊島区立豊島公会堂]の上演をされる中で、最近、創作の過程で「近代」というものについて、特に発言するようになっている気がしますが、どういうことを意識されているのか聞いてみたかったんです。

三浦:芸術が、近代以降どうなっていったかというのは、色んな人が色んな立場で言っているんだけども、あえて日本の演劇に限定して考えた場合、どうしても「新劇」、つまり近代劇を輸入した時代というのがあって、それと同時に、日本の近代化に自覚的であった作家たちがいるわけですね。その人たちのことが少し視野に入ってきて、気にし出したという感じがあります。彼らに目を向けたときに、西洋の輸入をどのように考えたのか、近代化にどういうふうに自覚的であったのか。『(CHITENの)近現代語』とか、「NIPPON文学シリーズ」というお題の中で、芥川龍之介とか、太宰治とか、三島はやってませんけれども、三島由紀夫とか。それによって近代という言葉を、少し自覚的に使っているのかな。日本の作家に教えてもらっている感じですね。
戦後の諸問題のテキストを扱って、太宰の『トカトントン』という、「戦後の玉音放送を聞いたあとに」というモチーフの小説を読んだとき、天皇の責任問題はもうちょっと勉強しないとまずいんじゃないのとか、あたかもなかったことのように済ませてしまうようなことは少し呑気だなというところに意識が向かっているのは確かです。特に京都にいると、やっぱり御所が異様な存在で、誰もいないから。空洞なんですよね。不在ということに意識的にならざるを得ないということと、さっきの層の話とつながるんだけど、京都の場合は、そんなに焼かれていないから道が残っているんですよね。ここは戦争に焼かれていないんだな、ということに日本の近代というものを考えさせられたところはありますけどね。

地点『トカトントンと』 2012年 神奈川芸術劇場 撮影:青木司

橋本:そういうテキストを扱う場合、稽古場で何か変わったところは実際にありますか。

三浦:今までは翻訳というフィルターを通して、いかに自分たちの日本語にするか、自分たちの言葉にして発語するかというのが、作業だったんだけど、日本語の作家のテキストをやっていると翻訳の必要がなくなっちゃうんだよね。翻訳の必要のないテキストというものが、具体的な作業ではけっこう難航しますね。別役実の作品も、ちょっとだけ引用したりもするんだけど、匂いというものが日本語なだけに分かった気になってしまうんです。その分かった気になることが危ない。チェーホフとかイプセンをやっていると、分からないんですよ。前提として分からなくて、注釈によって知識のレベルで理解することもあるし、感情の部分の台詞でも、ある程度わからない部分があって、それをどういうふうにトレースしたり、あえてトレースしないのか、というのが、主な作業になるんですけど。つまり等価でいられるんですね、作家に対して。日本の作家、特に太宰なんか、僕は両親の実家が秋田県だから、それこそむちゃくちゃ知ってる。何となく皮膚感覚でわかる。それこそ叙情的に解釈しちゃう。ロシアやノルウェーだったら、等距離でいられたような気がするけれども、ことに青森ってなっちゃうと、作業的には自分がどういうふうに捉えているか、俳優に「ここは叙情でいきます」とか、「ここは魂の叫びです」とか、その理由も一応説明して(笑)。自分が俳優にプレゼンテーションしなければいけない部分が出てきたのは、最近の稽古の特徴かもしれません。
ただ、面白かったのは、昭和天皇による玉音放送のラジオ原稿を、原文のまま読むということと、口語訳で読むというのを両方試したんですけども、変な言い方をすると、癖がないんですよね。全然主体性がない。どんな俳優がしゃべっても、等価である。特に玉音放送というのは、厳しい検閲、色々な思惑が働いているテキストだと思うんですけど、そういう意味では、主体性を問わなくて済む。内容そのものに突っ込んでいける、ということは非常に面白い体験でしたね。主体性のない言葉ってあるんだなと。もちろんそれは、発語した以上どういうふうに受け止められるかという、緊張の中でやるわけですけれども。

都市の中で「点」として活動する

橋本:なるほど。主体性のないテキストっていうと、僕らが日々接しているのは、インターネットに登場する言葉たち。実はいったい誰が書いたのか、厳密には確かめようがないような情報。そしてコピー&ペーストすることによって、それが書き手のところに留まらず色んなところに点在してしまうような。また都市のことと関連づけると、都市に色んな層があって、色んな人たちがいると。特に松本さんの演劇の中では、移民をテーマにしたりされていますけれども、その中で20世紀の移民と21世紀の移民の考え方というのは、スケールの在り方が違うんじゃないかということを、どこかで松本さんもおっしゃっていたんですけど。情報としても、人としても、移動の仕方がここ十数年の間にダイナミックになってきて、20年前に発明されたインターネットの仕組みに近い形で、現実における僕たちの移動自体も、何かどこか中心があって、その周辺があるという考え方よりは、もっと色んなものが点在していると。それが、ネットの世界だけでなくて、現実の都市でも起こっているような気がしていて。そのあたり、日本や、関西だけでなく活動しているおふたりは、どういうふうに考えておられますか。

三浦:松本さんは大阪出身ですか。

松本:九州の熊本、天草ですね。小学校の1年のとき大阪に。約10歳からだから、50年大阪にいるんですけどね。今回のKYOTO EXPERIMENTじゃないけど、身体が知ってる地図がある。地図なんていらなくて、身体が地図を覚えるはずだから、それで勘の良い人は絶対いいところにいくから、自分の地図を体の中で持つっていう、僕にとっても都市へのアプローチは特に大阪という街にはそれが必要かなって思いますね。だから、京都って歩かなくてもけっこう俯瞰的に見えてくる場所なのかなって勝手に思ったんですけどね。どっちかっていうとちょっと東山の上のあたりからすーっとこう見渡した方が京都らしい町並みが見えて。大阪なんかはものすごく点在してるなって感じますけどね。

橋本:最近、大阪の色々なアートや出版などに関わっている人たちのシンポジウムに呼んでいただいたときに感じたのが、ある催しなりある趣味の人たちが集まったら、京都よりも大都市のはずの大阪では、より親密で密に繋がっているなっているという感じが意外でした。それをその人たちに質問したら、「それは逆に大阪は人とそんな簡単に出会いやすくないからだ」と。「特に文化シーンにおいては、劇場に代表されるような中心となる場所がなく集まりにくいので、やっぱりそういう人と人の集まり方が小さな規模で点在しているんだ」と聞いて、僕が持っていたもっと都会的で漠然としたひとつの大阪のイメージと違って驚きました。

松本:そういう意味では大阪はすごく地形的にわかりやすいですよね。西東、南北、それぞれのポイントポイントで歴史的層が色んな層で成り立つようになってる。だから、そういうところの人がぽっとたまたま出会ったら確かに、遠い感じで、時代的にも距離的にもテーマにする時代も遠いし、なんていうか同時感みたいなものがすごく薄くてね、それだけでも広いところにおるんだなっていう…そういう時にこそ実感持ってものすごくしゃべりたくなるんですよ、確かに。

橋本:そうですね。それが均質化されてしまうとそれぞれ持ってたものが鈍ってしまう。それが保たれることによって活力が生まれるってことなんですね。

松本:そういうことですね。

撮影:表恒匡

海外公演での観客との出会い

橋本:ちょっと話は飛びますけど、三浦さんはこの春も海外公演をされてきましたけど、異なる文脈を持っている観客と出会っていくなかで何か考えることってありますか。

三浦:ロンドンとモスクワとサンクトペテルブルクに行ったんですけど、モスクワはいいんですよね。本番がうまくいった時の感覚ってやっぱりあって、それがモスクワでやると、ほぼ当たるんですよ。つまり文脈は違うはずなのに、もちろんモスクワでやる作品は古典が多いんで、チェーホフとかシェイクスピアだから、ある程度内容はわかるっていう。なんか変な言い方だけど、モスクワでやる時の本番は手抜けないっていう、もう絶対に見透かされるから。うまくいってるとこ、いってないとことかの反応がすごく手に取るようにわかる感覚っていうのは珍しかったですね。

松本:モスクワなんかはいわゆるその、日本と似てるとこあるんですかね。小劇場系とか大劇場系とか。

三浦:基本的には商業演劇と小劇場みたいなものの区別はあんまりないんですね。で、全部アート系というか社会運動系みたいな、あんまり境がないような印象がありますね。もちろんペレストロイカ以降は相当変わってるらしいんですけど。今の質問とちょっとずれるんだけど、どんな小さな劇場に行ってもプーチンの写真があるんですよ。劇場の支配人とプーチンが写ってて、大統領が観に来てるってことですよね。これはどういうことかっていうと、演劇が政治性を持ってるってことなんですよね。つまり、逆にいうと演劇が危険だっていうことです。危険であった時代があって、その名残が未だにかろうじてあるっていうところなんですよね。

松本:ちゃんと危険視されている。

三浦:そう。それと、変な言い方だけど、観客がテレビを見るように普通に演劇を観に来ているのかもしれない。それがまず、大きな違いなのかなって。

橋本:それは近さということですか。

三浦:近さ。数も観てるから、観客のプロっていう言い方も変だけど、よく観てて、知ってるっていう感じ。目が肥えてるって言ってしまえばそれまでなんだけど、作品を劇場で見るっていうことと、観客自身の実人生っていうのが、かなり近いところにあるのかなと思います。かたや、ロンドンはやっぱり全然違う。東京で芝居やってるみたい。サービス精神があって、ノリもいいんですけど、どちらかというと演劇ファンや観光客が、ひとつのステイタスとして演劇を観てるっていう印象を受けるんですよ。モスクワの場合は実人生と観劇が意外とつながってる感じがあるんですよね。
京都に帰ってきた時に、最近小さなカフェスペースで、20人とか30人のところで本番やるんですけど、そういう近さを少しずつ作って行かないと、ほんとに観客と離れていっちゃうなって思って。カフェでの公演後に、無料でドリンクサービスして、観客がなんとなく俳優に喋りかけたり僕に喋りかけたりするっていう、地道な努力なんですけど。そういうことも前までは興味もなかったんですけど、やるようになりました。だから最近は、毎回どの本番でもカーテンコールに自分が出て、責任の在処ははっきりさせて、「あ、演出家だ」ということになるようにしています。色んなところで情報が錯綜するので、落とし前は舞台でつける、というか。最近の海外公演を経て、少し意識が変わってきてるところがあります。
京都の都市論でいうと、できれば京都にはまともな劇場がないんで、西洋型でいうまともな劇場がね。その実験はしてみる必要があるだろうというふうには思ってるんですよね。京都という、都市としては完璧な広さと完璧な親密さ、あんまり邪魔が入らないというところに、あえて劇場を作って観客がここのプログラムはクオリティが高いっていう感覚を持って出会えるようなね。そういうことが僕にとっての京都の身体論っていうか都市論につながっていくのかなというふうに、ちょっと思ってました。

橋本:そういう色んなところに行く事によって、観客との距離感とか、客席のあり方について、刺激を受けていることは面白いなって思ってるんですけど。

三浦:どうですか。海外って成功ってあるんですかね。

松本:ほんと難しいよね。僕も三浦さんと同じで、やっぱり演出家出ていかなあかんなっていうのはあって。大阪におったら、酒飲んでたらいいんだけど。向こうではロビーには出ますね。それがこう、しんどいかっていうと、意外とやっぱり面白かったり。なんていうのかな、芝居は芝居であるけど、そのやり取りのほうが、芝居を超えて真実である場合も出てきたりとか。向こうの聞き方というか、クエスチョンが日本語じゃないところが、僕らが本質的に思ってることをスライドさせて向こうで本質化するようなことがあって、そういうところのやり取りがすごく面白くって、だから積極的に向こうでやるようにしてますけどね。ただ、どこどこ行ったから、どこでも面白いかって言うとそれは絶対ありえないし、まあ、モスクワの話はそれは豊かな話や思うね。

三浦:例外中の例外だと思うんだよね。

松本:大概どこ行ってもエリート族しか来ないよね。そういう意味では、この前行ったシンガポールが一番面白かったね。野外でやるのはいいですね、劇場じゃないところでやるのは。

三浦:ステイタスがついてないところでやるのが。

松本:そう、当然劇場付きの客はいないわけだから、若い子が積極的に来てくれて。その時の芝居の内容がね、第二次世界大戦の勃発みたいなのをテーマにしたんですけど、その劇場があるのが、マレー半島日本軍上陸、そのまさに上陸地点だったんですよ[※2]。だから、アフタートークとかがすごく有効性があって、面白かったですね。

維新派『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき 《彼》と旅をする20世紀三部作 #3』 2011年 フェスティバルヴィレッジ 撮影:Matthew G Johnson

橋本:客席が舞台の方にせり出しているような場所があるっていうことですよね。そういう意味では日本はかなり遠い状況が。どういう客席を作ったらいいのか、ほんとに僕自身も制作という舞台をプロデュースする仕事をしながら、課題だなと感じています。だからつい、離れていく客席をつなぎとめておくために、アーティストの方に客席に寄ってくれっていうお願いをしてしまうわけなんですけど。それがいいのだろうかとやっぱり悩むんですよね。それはどんどん観客の能動性を奪っていくことにもなるでしょうし。

三浦:それは難しい話だよ。

松本:観客の話はちょっと難しいけど、今なんとなくわかってきたのは、京都の劇場と大阪の劇場のあり方は、全然似て非なるものでいいんじゃないかなっていう感じはしてきたね。だから、大阪はもうやっぱり、維新派のやり方が一番正しいかなって思ってるけど(笑)。絶対中心はありえないっていうのが最近わかってきて。京都はどこにおいても中心になりうるっていう。ぱっと見たら分かる。大阪は大劇場や中劇場は潰れたけど、インディペンデントはけっこう多くやってるんですよね。ほんとに「点」で。全く僕は行ったことない、見たこともないし、噂も聞かない、でもちゃんとやってる。それでいいんじゃないかなっていう。ある時にはあっち側がバーンとはじけたり、ある時にはこっち側がっていう感じで、中央ってのは無いほうがいいような感じ。どこにやっても中央にはならないだろうし、逆に京都はどこでやっても中央になりうるなっていう。直感的に言ってるんですけどね。

※1 KAAT神奈川芸術劇場との共同制作により、日本の文学作品を舞台化するシリーズ。これまでに『Kappa/或小説』(原作:芥川龍之介、2011年)、『トカトントンと』(原作:太宰治、2012年)を上演。
※2 上演作品は『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき 《彼》と旅をする20世紀三部作 #3』。2011年シンガポールアーツフェスティバルに参加、エスプラネードパークでの上演。

■ 取材日:2012年8月30日(木)■ 取材場所:京都芸術センターにて
■ 監修:KYOTO EXPERIMENT http://kyoto-ex.jp/

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