展示風景《誰も招かれない 亡霊だけが集まるオープニング・セレモニー》
2面映像インスタレーション、2015年 撮影:守屋友樹
あなたはどんな事をしてるの? なぜそれをするの? どこでやるの? なにがすきなの? どこが辛いの? どこに行きたいの? 再びなぜ? 彼女は色々聞いてくる。でも、彼女なら嫌じゃない。なぜか、ぽつぽつと自分の事を話してしまう。しかも、悩みながらのあやふやな答えでも、どうした事か、深い対話をしたみたいに心が豊になった気分。彼女なら…。
アラヤー・ラートチャムルーンスック、私の勤める京都市立芸術大学の学生と一緒に作った小屋での授業に毎週参加し、一人一人の学生に丁寧に話しかけ、様々な質問を優しく投げかけたのはタイのチェンマイから来たという彼女だった。長い、もしゃっとしたグレーの髪の毛と浮世離れした嫋やかな動き、優しい目と口元をした不思議な女性だった。彼女に促されるように、普段はあまりしゃべらない学生も自分の事をしゃべり始め、皆でとりとめの無い長話へと誘われた。熱くならない対話、しかし、深い議論。いや、議論なんてしてない気分。でも、深い何か。事実、学生達はそんなに流暢に英語をしゃべれる訳でもなく、ほとんどは通訳を介して会話してたはずなのに、なぜか皆自身がアラヤーと深い対話をした気分になっていた。私自身も。初めて会った時、先日亡くしたフレンチブルドッグの話をしたら、彼女も同じくフレンチブルドッグと生活しており(15匹の犬と生活しているのだが…)悲しみと喜びの記憶がお互いにスッと繋がった。その瞬間から長年の知己の様である。学生達も心の繋がりが深く記憶されたのか、一年後の今回の展覧会での再会でも一年の時空を超え話し始めていた。
展示風景《捨て犬の命はあまりにも簡単に売り買いされる。数がたくさんいたら、大事にお世話できない。》
ガラス瓶・捨て犬の毛・飴玉・付箋・インクジェットプリント、2015年 撮影:守屋友樹
この様な関係性はどうして可能になるのか?もちろん彼女の人間的魅力なのだが、今回の展示を観て改めてその秘密を垣間見た気がした。彼女は人々の、モノモノの、事象のモノローグ、独り語りに丁寧に耳を傾け、まなざしを向け、対峙しているという事である。対話というと、向き合って、会話を交わし、意見を交換しという様な、ある種積極的な関係性を想起するが、彼女の場合は、沈黙も含めてモノローグを対話化しているのである。殺処分になる犬達、認知症の老人達、路上生活者達、蚊帳の中の小学校の卒業生の高齢者達、詩人。以前の作品では、村の人々、死んだ人、物言わぬ犬達、狂人と言われる人、そして幽霊などと対話していた。沈黙、一方的、支離滅裂、難解、聞き取れないほどのかそけき声、歌のような言葉、うめきのような言葉、不可解なそぶり。それらを、静かに、美しく、穏やかに記録し、存在を優しく顕在化しているのである。「NIRANAM 無名のものたち」という今回のタイトルには、彼女のカソケキものへの愛のまなざしが込められている。そして、彼女は、生と死、現実と夢、人間と動物などの境界線を越境する技術を獲得しており、自分が今いる次元から離れることの意味を他者に問いかけてくる。
京都市内でのリサーチ-老人ホームにて、2014年 撮影:スワンシン・ラッチャタ
彼女の愛は静かだ。そして少し悲しい。共有の可能性と不可能性、コミュニケーションの可能性と不可能性、共存の可能性と不可能性、共感の可能性と不可能性。その狭間で一人行き来出来てしまう自分への悲しみだろうか?世界は分断され、認識しないモノは存在しない、存在を消されてしまう。そんな悲しみへの「きき耳」。アラヤー・ラートチャムルーンスックは現代社会に於ける様々な空間との交信者である。蚊帳の様な柔らかい境界線、介入ではない入り込み。私は彼女みたいに越境できるだろうか? 私も静かにきき耳をたててみる。
京都市内でのリサーチ-蚊帳で作った仮設小屋にて、2014年 撮影:スワンシン・ラッチャタ