―まずはじめに、山本さんは普段、金沢舞踏館ではどういう方たちが中心になってどんな活動をされているのでしょうか。
山本:普段は金沢で自分たちの稽古をして、あとは舞踏合宿といって、年に二回金沢の山にある民家を改築した市の施設に泊まり込んで稽古をしています。それ以外に、イベントに呼ばれて出演したり、僕の先生である土方巽さん関係のワークショップで東京に行ったりしています。海外では公演とワークショップでして、ワークショップの成果としてプレゼンテーションをするということも多いです。今はメンバーとしては5人ですが、それ以外に舞踏を習いに来ている人が何人かいます。
―若柳さんがされている日本舞踊について簡単にお聞かせください。
若柳:日本舞踊というのはもともと歌舞伎の振付から生まれて来ました。うちの初代流祖の若柳壽童さんという方から祖父である二代目吉蔵までは歌舞伎に携わってきたのですが、今ではご存知のとおり、ほとんど藤間流の方が歌舞伎の振付をされているので、私どもの流儀は、どちらかというと花柳界の方に縁があります。現在は宮川町で教えに入っています。あとはもちろん、うちの若柳流の弟子たちの稽古をしたり、自分の会に出たりしています。昔は他の流儀の方と密接に交流することはあまりなかったのですが、ここ数年は積極的に交流して同じ舞台を作ることにも力を入れています。
―そもそもどうして舞踏や舞踊を始められたんですか。また、習いに来る方はどういった動機があってはじめようと思うのでしょうか。
山本:僕は家が農家だったので、小さい時から「お前は長男だから家を継いで農家をやれ」ということを言われていたんです。何かにつけて長男でお前が一番責任重大といわれて、僕は逆に反発しました。「僕は違う。僕は農業を継ぐ人間ではない」と思っていました。
たぶん伝統芸能の方にも、なんで能楽師や日本舞踊の家元の家に生まれたのか、継がなきゃいけないのか、とか悩みがあるでしょうけど、僕の場合は反発した。一般に、なんで私はこんな生き方をするのかとか、自分には違う生き方があるように思えるとか、広い意味でのいろんな悩みがあって、それをどう表現、解決しようかというときに、舞踏と出会うんです。たとえば、僕が始めた頃には看護婦さんが何人かいたのですが、病院で初めて生死と向かい合うという体験をした人たちがそのことについて悩みだした時に舞踏と出会ったんですね。あの頃、何かしら問題意識の芽生えた人たちが、模索しつつ何かヒントを与えてくれるかもしれないと思って集まって来ていたんじゃないかなと思います。60年代の学生運動が華やかになりし頃に暗黒舞踏が存在感を持ったというのもそういう事情からですね。世の中が平和になるとまた違ったあり方が必要になるとは思います。
若柳:もう生まれた時からずっと三味線の音を聴いて、着物を着た人が家に出入りしていたので、うちはこういう家だ、自分もいつか必ず継ぐだろうということはわかっていました。身体を動かすことが好きだったんですけど、別の何かがしたいということはなかったです。継がなければいけないという重圧で少し脇道に逸れたこともあったのですが、それは完全にプレッシャーに負けただけですね。
山本:素直な子ですよね(笑)。
若柳:まあ半ば腹は決まっていて、嫌いではなかったですから(笑)。
日本舞踊を習いはじめる方は、小さい頃にお祖母ちゃんに連れてこられたりというところから始まるのですが、最近は、先ほどの話のように他の流儀の方と交流したり舞踊協会でもワークショップを開いたりしていますので、若い二十代、三十代の男性女性問わず入って来られますね。悩みから入って来られるというよりも、まず着物を着てというようなところからなので、そのへんは入り方が違います。
―日本舞踊には流派がありますが、舞踏の方では流派に分かれているのでしょうか。
山本:それぞれ教えを請うた人の影響で流派みたいな形は出来てきていますね。今はもとの「暗黒舞踏」と呼ばれた時代の人たちが順番に亡くなっている時期で、僕らはその時代を引き継ぎながら各地に散らばっていますので、いろんなスタイルで広がっていますね。海外でも広まったので、日本人から教えを受けるだけではなく、海外で自分たちでやりはじめた人たちもいます。
僕らが舞踏を始めた頃には、青春期の悩みにあふれた二十歳前後で東京に出て土方先生と出会い、舞踏に惹かれるというケースが多かったんです。先生は稽古で「あなたは20年間生きてきたでしょう。そしたらもうあなたの身体の中に染み付いた、染み込んだものがあるはずですから、それで踊りなさい。ここで習う必要はありませんよ」と言われるわけです。習いに来ているのに(笑)。実際、みんな「暗黒舞踏」というものに惹かれた根拠を持っているんですが、その根拠が何であるかということを逆に問い詰められるというか、見透かされる。今回のハムレットでは鏡ぜめといって鏡のシーンがあるんですが、それと同じように、習いに来たのに逆に鏡を突きつけられるような稽古の仕方でした。だから僕は、生きて染み付いてきたもので踊りなさいというような教えが舞踏の基本だと思っています。
―もともと舞踏は、モダンダンスがベースになって出来た日本人のダンスですよね。
山本:はい、日本人が発想しました。ですから基本の要素として、日本人にとって伝統的なものが染み付いているという点では古典と繋がってはいますね。逆に言うと、モダンダンスに対して「やっぱりこれは違うよね」ということで、西洋からもう一度離れたようとして出てきたものなんです。最初は西洋のモダンダンスを目指したんだけれど、それではどうも違うということで、日本人の身体性や考え方、立ち居振る舞いからあらためて作り直した表現です。海外では素直に日本のなかから出てきた能や歌舞伎、文楽に続く近代日本の身体表現ということになっています。
―今回の「ハムレット」は日本の伝統芸能の方々が出演しますが、舞踏の起源が日本にあるということから、萌さんにとって、たとえば演出がやりやすい点や、共通点、相異点など、今までの稽古のなかで感じられたことはありますか。
山本:海外で全く文化の違う人たちとやった時には、こちらの言わんとしていることがなかなか通じなかったり、頑として向こうの文化や表現、考え方を譲らなかったりということがありました。「あなたたち東洋人はそういう考え方かもしれないけど、私たちは違うよ」というような葛藤があったりするわけです。僕らが海外でやるときは、異質なものとの化学反応を期待されて呼ばれるのですが、向こうのダンサーたちは「何でこんなことを」といった拒絶感が強い場合もあります。日本人だったら「いいものを作るために徹夜してやろう」みたいになりますけど、「何時から何時までしか私たちは働きませんよ」と言われたり。彼らには彼らの準備の時間があって、それも含めて仕事の時間なので、僕らはトレーニングや基礎的なことから始めたいけれども、それをやると準備だけで時間を食ってしまってやりたいことができなくなるということもありました。
今回こちらで伝統芸能の方たちとやり易い面は、同じ日本人であって、実際に自分ではやらなくても能や狂言、日本舞踊を見ているので、文化的な素養の接点が多くて語りやすいことです。ただ、皆さんそれぞれが先生であり、小さい時からされているので、きっちりとした型を変えていくことには抵抗がおありだと思います。僕がここに呼ばれて来たのは、むしろそのへんの枠組みを崩して、そのなかから何かが生まれないかという試みにあると理解しています。今回は、ただ持ち寄ってきてパッチワークのようにつくるのではなく、もっと垣根を崩して新しい表現に取り組み、それによって何か違ったものを生みだしたいと考えています。
伝統芸能の方たちは、小さいときから芸が染み込んで身体ができているので、意識的に何かをやろうとしないでも、違うことをさせたらきっと何かしらそこに今まで積み重なっているものが出てくると思うんです。それによって作品を創れないか、それもわかり易いものではないほうが良いということで、脚色を担当する小林先生は策略を立てられて、伝統芸能とはほど遠く、舞踏からもかけ離れた、まるっきり逆のものを持ってきているわけです。僕らはもう最初からあまりのギャップに作品を放り投げるところから始めるしかない。ハムレットとは呼ばれているけれども、自分たちでまた違う作品を創ろうということで、取り組み始めました。
―身体に染み込んだものを舞踏的に崩していくような稽古について、若柳先生はどう感じていますか。
若柳:「歩く」ということひとつに関しても、リラックスするように言われ、やっぱり我々は力が入って歩いていると感じました。まず自然に型を作らず歩くということから悩みましたが、だんだん「髭が地に這っているイメージ」というようなことが何となく分かってきたと思います。たとえば後半の戦いの場面での風の動きなどは、自然な風の流れや動物的な動きといったこちらのやり方を認めていただいたところがあって、そのへんは繋がりがあるのかなと思いました。全く違うところも共通するところもあります。
―舞踏には一見汚いものやみすぼらしいものを美しいと思う感覚を持った分野ですが、日本舞踊にもそういう感覚はありますか。
若柳:そもそも、「崩す」ということがあまりないですね。おじいさんおばあさんにしても、『高砂』で箒と熊手をもった姿のように、背中が曲がっていてもやっぱり位が高い。『三番叟』の翁もそうですし、そういうものに慣れています。
山本:それを育てる文化の違いによるとは思います。歌舞伎や花柳界で振付、指導をされるということですが、受け取るお客さんのほうにそれを美しく観ていたいという思いがあると思うんです。日常で仕事でうまくいかないとか、家庭でもめているということはやっぱり普通にあるわけですが、それを忘れて「ああ綺麗、素敵」という気持ちに洗われたいと。踊りには本来、見て浄化される作用がありますから。
若柳:とくに花柳界に携わっていると、そこに来られるお客さんというのは、芸妓さんや舞妓さんを呼んで、嫌なことをすべて忘れて、夢の世界を見に来られているんですね。だから芸妓さんたちにあまり崩れた女はさせられません。稽古中も横に座って少しでも崩れたらピシッと叩くように、貞淑で足の指先からきちんとして、と教えています。
山本:「暗黒舞踏」が生まれたのが1960年代ですから、日本が戦争に負けたことによって価値観ががらっと変えられ、高度経済成長期に何か新しい文化を取り入れて意気揚々としていた頃です。そんな時に僕らの暗黒舞踏は「格好ばっかりそうなって本当に良いの?」という一種のアンチテーゼとして、奇異なものや暴力的なものを出してきた。要するに、戦争に負けていろんなことを全部忘れたい、負けたことさえも忘れたいという時に、それだけで良いのかということです。本来日本には、ほんの少し前までは浮浪者がいて、そういうものを見ていたはずなのに、何でみんな急に綺麗なことばっかりという思いがあった。まあ汚いものが綺麗になるのは良いことですが、それに対して、見ようとしていないけれどこれって本来の人間の姿じゃないのかというものを舞踏がもう一度出してきたことで、はっきりと時代に存在感を示したと思います。
それぞれ育ってきた文化を支えるバックボーンの違いというのは、僕らは、たとえば先ほど話に出た背中の曲がった老婆だったら、しゃんと格好を付けていたことに対してそうじゃないだろうと言うんです。「あなただって年をとったらこうなるでしょう、そんなふうに醜いなんて言ってていいの」と問い、なおかつそれを舞台表現として磨いたから、僕らのジャンルが広がったと思うんです。
―日本人の体型や立ち方に合った踊りという点についてはどうですか。よく日本人は猫背で、西洋人は腰を立てて胸を張った姿勢などと言われますが。
若柳:自然な姿勢という点では舞踏のほうに当てはまるのだと思います。今回の稽古を受けて、普段いかに力を入れているかがわかりました。やっぱり一定の方向にばかり不自然に回ったりということがありますから。
山本:僕も一時、社交ダンスなどやりましたが、社交ダンスは無理に形をキープしようとするので、だんだん身体が歪んできてしまったということがありました。
ただ、身体については時代的な問題が大きいです。昔の日本人は着物を着て芸事なんかもしていたのでわりに身体がびしっとしていた。武士出身の人もいますし女性も帯を締めていますから、本来日本人は姿勢が良いんです。飛脚なんかも古い写真を見ると足腰がしっかりしていて、今の若者とは全然違います。日本人の体型というか、使い方だと思いますね。「ナンバ歩き」ように、体の使い方によって作り出した、日本人が独自に突き詰めた文化があったんです。そのへんが崩壊して、口うるさい人や基準になる人がいなくなってみんなだらしなくなったんだと思います。
―稽古の様子を拝見していると、木の根や闇のかたまりなど、人間ではないものが描かれた絵を見せながらイメージを伝えて振り付けをしているのが印象深かったです。
山本:僕が習った時期の先生の教え方がだいたいそうでした。ただ、土方先生のやり方というのは年代によってどんどん変化していったんです。ハプニングみたいに仕掛けでいきなり何かやりだすとか、仕掛けをもって舞台をやるとか、大雑把なぶつかり合いみたいなところから始めるとか。舞台作り、表現のやり方が技術的に変化していく。で、僕のいたときは、ちょうど資料をどう分析してどういうふうに動きに転換して考えていくかということをやっていて、僕が出た後は、先生はさらに絵から離れて俳句から踊りを作るとか、そういう方向にのめり込んでいましたね。慶応大学アートセンターにに土方巽アーカイヴという機関がありますが、そこでは土方巽の技法がどのように変貌していったかを資料として残しています。ですからある一時期に僕は影響を受けて、そのやり方を自分の方法論としてそのまま用いているということです。
やっぱり大事なのは、動きに対してどういった根拠を自分の中で持てるか、ということですね。しっかり自分で根拠を持って、動きが表現として出されていれば、ちゃんと他の人にもそれが伝わる。根拠を持ちやすいようなアプローチとして、たとえば資料を使っているわけです。
若柳:初めて資料を見せられた時には戸惑いました。最初大広間でお会いしたときに「こういうことをしてます」といって木の根の写真を見せられて、「わかりました」といってその日は帰ったんですけどね(笑)。
―そのようにイメージを身体で表す稽古は、若柳さんご自身の日本舞踊にもフィードバックできるようなことがありましたか?
若柳:やはり、もともとの振りや型があったとしても、本来もっともっと洗練される必要があるなと反省しています。伸びたり、足を持ち上げたりするにしても、その根拠を説明しないと、みなさんやめていかれるだろうし。動きを洗練して考えて、根拠づけをしていくことが大事だなと。そうすることでお客様にもわかりやすいものになるかなと思います。
もともとの日本舞踊の曲って、今では使われない昔の言葉で、またそれが掛詞になっていたり、今の人にはわかりにくいじゃないですか。そのへんが表現にできたらと思います。お稽古が楽しいですね(笑)。
―「ハムレット」のストーリーについて、ハムレット役と演出家としてどのような印象を受けましたか?
若柳:私としては、欲望に対しても何に対してでも男性よりも女性の方が強いと考えているので、弱さをどう表現するのかというのが課題だと思っています。そして、オフィーリアはハムレットのどこに心奪われたのか、どんな男なのか、本では理解しにくい部分を掘り出したいと思います。
山本:僕の関心は、演者の肉体がどう動くかということなんです。ストーリーの解釈については、今回演出助手の舞踏館のメンバーの白榊と制作の鈴木から教わって僕が勉強させられています。小林先生から「オフィーリア目線で」と投げかけられたんですが、オフィーリアという人物についても、ただ言いなりになって死んでいくだけの存在じゃないかと。言葉の感覚については、僕はあまり鋭くないんでね(笑)。
ストーリー構成上、まずオフィーリアが死んだところから始まるということで小林先生とは合意したんです。オフィーリアが見ていないはずのその後の場面が盛り込まれています。というのも、死んでしまったらこの世のいろいろなところが覗けたり、生きている人の行為も操れるのではないかと考えました。最後は救いとして、オフィーリアは恋しいゆえに死んでもハムレットの魂を奪いに来ると。「雨月物語」にありますよね。死んでいくハムレットの魂を自分のところへ引き寄せていきます。
―今回の「Ophelia Glass-暗黒ハムレット-」をどのような舞台にしたいか、意気込みをお聞かせください。
山本:伝統芸能が舞踏と出会うことによって、混沌や混乱のなかに光を見ることができればと思います。
若柳:世界観の違うものと出会うことで、稽古でも葛藤し、さまよっているように感じますが、そのなかで一つの芯が生まれてくるはずだと思います。舞台ではそこを出していきたいですね。
そして「自分だけな楽しむな。お客様と共に楽しめ。そして皆様にわかるように踊れ」という父の教えを大切にしながら、新しい作品をつくりたいです。