舞台芸術

村川拓也アーティストトーク

2015.01.26

ドキュメンタリー映画のように演劇を作ってみること

京都を拠点に活動するドキュメンタリー作家・演出家、村川拓也は、KYOTO EXPERIMENT 2014で新作『エヴェレットゴーストラインズ』を発表した。本作は、前もって村川が出演者(候補)に舞台上での行為を指示した手紙を送り、しかし、手紙を受け取った者が指示通りに劇場にあらわれるかはわからない、いわば出演者未定の作品。公演後、三輪健仁をゲストに招いて行われたアーティストトークでは、演劇という表現における不確定性/亡霊性/物語性など、さまざまなトピックが展開された。

"1 一公演につき、29人の人々に手紙を送った。手紙を受け取った人々はこの作品の出演者候補である。手紙には指示が書いてある。その指示に従う場合は劇場に来て出演者として振る舞う。指示に従わない場合は劇場に来ない。この作品は、出演者未定の演劇作品である。
2 上演中にプロジェクションされる字幕は、手紙を送った人の名前、居住地、職業、年齢、そして手紙に書かれた出演時間と指示の内容である。
3 出演者はどこかからやって来て、出演が終わると劇場を出て、それぞれどこかへ帰っていく。"
――『エヴェレットゴーストラインズ』公演当日配布パンフレットより

劇場の外とリンクするインストラクション

三輪:私はパフォーミングアーツを専門に仕事をしているわけではないのですが、所属している東京国立近代美術館で「14の夕べ」という企画を2012年に行った時、村川さんが演出されている『ツァイトゲーバー』という作品を上演していただいたことがありました。この企画は、リニューアル期間でがらんどうになった美術館の広大なギャラリースペースで連続14日間、日替わりでパフォーマンス的な表現を扱うというもので、開催後も、記録書籍を作る中で村川さんと何度かやりとりをしました。私は村川さんとは異なる美術という分野で活動していることもあり、今日のトークではいろいろなところへ話題が広がって行けばいいなと思っています。
昨日東京から来て、『エヴェレットゴーストラインズ』最終日の公演を拝見しました。まず「出演者」の「演技」がものすごく「うまい」という印象がありました。覚えている限りでも、たとえば「この場所の音を意識して注意深く聞いて下さい。客席に座って下さい。」という指示を受けていた方とか、それぞれの人に割り当てられた役割がその人自身にフィットしているように感じて、驚きました。村川さんは、出演者のみなさんと面識はあるんですか?

村川:いや、全く知らない方もいます。僕との関係も様々なレベルの人がいて、知り合いの知り合いで、舞台上で初めて見た方もいれば、一方で、なんとなく顔を知っている人や、僕自身の友達もいました。

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KYOTO EXPERIMENT 2014 村川拓也『エヴェレットゴーストラインズ』 photo: Takashi Horikawa

三輪:プロジェクターで投影されているインストラクションは、4回行われた公演中、変わっていないんですよね。事前に送った手紙そのままで、公演当日に改編はされていないと。

村川:そうですね。

三輪:なるほど。事前に書かれたはずのインストラクションが、その時に劇場の外で起きている状況とリンクしていると感じられたことがいくつかありました。たとえば私が見た10月5日の上演では、外では台風が来ているのに、持ってきた傘を舞台上に置いて退場するという指示をされた女性がいて、このあと傘もなくこの人はどうするんだろうって思ったり、後半で忌野清志郎の「地震の後には戦争がやってくる…」と始まる手紙がテロップで流れるところも、数日前に話題になった、ノーベル賞候補に憲法9条が挙がっていることを意識させられたり…。まるで予言のような感じがしました。

『エヴェレットゴーストラインズ』が抱える不確定性

三輪:「14の夕べ」では、音楽における楽譜や演劇における台本、パフォーマンスにおけるインストラクションなどを総称してスコアと呼び、そのスコアとパフォーマンスの関係に自覚的な作家を14組選んで上演をお願いしました。つまり、演奏者や役者が従うスコアは事前に用意されるけれども、上演の日を迎えるまで、パフォーマンスはいまだ来らぬものとしてある。そのスコアは、未来に起きる出来事をどれだけ予測することが可能か。
今回の『エヴェレットゴーストラインズ』では、手紙を送った相手が実際に本番に来るのか来ないのかは不確定。けれど、村川さんが受けられていたインタビュー記事を読んだら、「出演者が来る場合も来ない場合も成立するようにシミュレーションをしている」とおっしゃっていました。つまり、来る/来ないという不確定性はあるけれども、どちらの場合でも村川さんはすでにそれを予測していたんですよね。その上で4回の公演を終えて、村川さん自身が予測していたものを超えた出来事というのは起きましたか。

村川:具体的な例なんですが、手紙に書いた指示で、コンビニの弁当を持ってくる人と、その後に出てきてその弁当を食べる人がいたんですね。でも、3日目に、弁当を持ってくる人が来なかった。でも、弁当を食べる人は来て。彼は自分が食べろと言われている弁当を探すんですけど、どうやら弁当を持ってくる人が来なかったらしいということがわかると、何もすることがなくて呆然と立っているだけになってしまって。来る確率が高い人に手紙を送っていたつもりだったので、まさか来ないとは思っていなくて、驚いてしまいました。でもそれも、お客さんにとっても、僕の演出にとっても、予想の範囲内の出来事だったというように思います。
今回お客さんからもらった感想の中で、もっと不確定であったり、ハプニングが起こると思って来たけれど、逆に演出がなされていてコントロールされていることが意外だった、という反応がありました。僕も事前にはシミュレーションしかできなくて、どのくらい時間を使って指示の行為をしてもらうか、バランスが難しかったけれども、その結果、実際に上演された作品がコントロールされ過ぎていると思った時に、でも演出をやめれば不確定性が強まって予想だにしないハプニングが起きるのかというと、そうでもないと思うんです。あるいは、なにも起こらない、いい意味での退屈な時間を作ろうと思うと、演出を手放すのではなくて、むしろ更に緻密に演出をつけないとできないことなんですね。たとえば、僕の好きな映画っていうのは退屈なドキュメンタリー映画が多くて、すごく退屈なんだけれど、よくよく分析して見ると、相当計算されている。
この作品はまた上演できる機会がありそうなので、もっと不確定なものを盛り込む方がおもしろくなるのかどうか、これから検証していこうと思っています。

三輪:不確定性という言葉は、何が起こるか分からない、なんでもありの自由な表現という風に思われることも多いですが、少し違和感があります。たとえばジョン・ケージらに倣って、先ほど言ったスコア、今回でいえばあらかじめ出演者候補に送られていた手紙の指示と、実際に起こったこととのズレを指して不確定性と考えてみる。そうすると、今回の村川さんの作品は、非常によく計算されてきちんとやられているなという印象を持ちました。何が起こるか全く予測できないような感じはなかった。

村川:僕も、何が起こるかわからないといったようなことを楽しもうとは思いません。それだったら、そのへんを歩いている人100人に手紙を渡してどうなるのかってことをやればいいけど、それはあまり面白くないかな。

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演劇がもっている亡霊性

三輪:今回の作品は昨年発表された『エヴェレットラインズ』の発展版と伺っていますが、タイトルに「ゴースト」が足されたのは、どういう発想からでしょうか。

村川:改めて新作として発表するにあたって、タイトルはどうしようか悩みました。ガラッと変えて『赤紙』っていう案もあったんです。でも、『エヴェレットラインズ』はもともと気に入っていた名前だったのと、昨年の上演で、初めて演劇の持っている亡霊性や、不在の表現に気づいて。

三輪:亡霊性?

村川:たとえば、役者に役が憑依するとかって演劇ではよく言われますけど、僕はそういうことが全然わからなかった。目の前にいるその人が、その人以上でも以下でもないっていうスタンスで作品を作っていたんですけど、『エヴェレットラインズ』をやって、いないのにいるように感じたり、いるのにいないように感じるということを初めて納得したんです。だから、見えないもの、ということで真ん中にゴーストを入れて『エヴェレットゴーストラインズ』になりました。

パフォーマンスを記録すること、繰り返すこと

三輪:「14の夕べ」の話になるんですが、展覧会の後に記録書籍『ドキュメント|14の夕べ || パフォーマンスのあとさき、残りのものたちは身振りを続ける…』(青幻舎、2013年)を作ったんですね。「14の夕べ」で扱った作品はパフォーマンスと呼ばれうるようなもので、しかもこの企画では、それぞれ一回ずつしか上演しなかった。だから、その一回を見逃してしまった人は、その出来事に立ち会えません。
たとえば絵や彫刻の場合だと、もちろん最後には朽ちてなくなるものですが、物質としてはっきりとした限界をもっているものなので、美術館が購入して収蔵できます。映像も、フィルムやビデオテープなどのかたちで、物質として保存できますよね。絵画や彫刻と同じような意味で物質と言えるかは留保が必要ですが。それに対して、パフォーマンスは物質として保存することは出来ない。では、物質ではなく「出来事」を記録し、保存するためにどのような方法があるのか。
絵画は、絵具の盛り上がりや色彩を完全に再現することは不可能ですが、二次元の紙の上に印刷する、ということは当然普通になされます。では、パフォーマンスを撮った大量の写真の中で、作者が、作品の本質が最もよく表れていると思うようなベスト・ショットを一枚掲載したら、その出来事が保存されたことになるのか…いや、多分それじゃ保存できない、と思うんですね。むしろ、ある特定の写真一枚がその作品を代表するかのように世の中に流通してしまうことは、実際の出来事からずっと遠ざかっていってしまうのではないか…。そこでこの本を作った時に考えたのは、出来事よりも前に存在している、それぞれのスコアができた時点から公演が行われるまで、作品の周辺にあるさまざまな要素をなるべく取捨選択しないで集めてみてはどうか、ということでした。
村川さんは台本を書かないということだったので、台本ではないかたちで、演劇を作るためのスコアは何かありませんかと話をした時に挙がったのが、ある写真でした。

村川:2011年に発表した『ツァイトゲーバー』は、身体障害者の介助を仕事にしている僕の友達がいて、彼の1日の仕事を舞台上で再現するという作品でした。着替えをしたりご飯を食べたり洗濯したり…実際の労働は9時間ぐらいあるんですけど、それを1時間ぐらいに凝縮する。介助される人の役は、お客さんの中から1人募って、舞台上に上がってもらいました。

三輪:村川さんが出してきた9枚の写真は、その村川さんの友人で『ツァイトゲーバー』の出演者の方が実際の仕事に行く道すがらの風景を撮影したものです。村川さんが台本を書くという作り方ではなく、出演者の彼とのコミュニケーションの中で出来ていく作品だったので、敢えて言うならこれが自分にとってのスコアではないか、ということでこの写真を提供していただきました。村川さんの作品は、もちろんご自身も意図的だと思うんですが、舞台の外の実生活と地続きになってしまうような性質がありますよね。「14の夕べ」でやっていただいた『ツァイトゲーバー』は3回目か4回目の再演だったんですが、上演をご依頼した時に、この作品の再演はある種ジレンマがあるというか、難しいものだということをおっしゃっていたんです。出演者の実際の生活や仕事と作品に密接にリンクしていた作品だったので、初演の時は実生活と舞台上でなされることが並走しているのだけれど、初演から時間が経つほど、出演者の実生活は変化して、舞台上の行為とかい離していく。

村川:最初にこの作品を作った時は、彼も仕事を始めたてで、たどたどしかったくらいのころでした。その身体の不慣れな感じがいいと思ってやり始めたんですけど、どんどん時間が経つにつれて、今はこう言う風にごはんを食べさせていないとか、相手と仲良くなっていたりとか、仕事の状況は変わっていく。現実が更新されているのに、再演する時はかつての自分に戻らないといけないという葛藤が生まれてしまったんですね。

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「14の夕べ」 村川拓也『ツァイトゲーバー』 photo: Hideto Maezawa

三輪:ドキュメンタリー映画であれば一度撮影したものを繰り返し上映できるけれども、演劇の場合の再演は、現実とフィクションがどんどんずれていってしまう困難を抱えてしまう。『ツァイトゲーバー』の時はそれが印象深かったのですが、今回の『エヴェレットゴーストラインズ』では、舞台の外と中は地続きなんだけれども、その様子というか、両者の関係性がずいぶん変わったと感じました。『ツァイトゲーバー』よりも演劇のフォーマットにおさまっていて、おそらく、再演はある種すごくやりやすいんじゃないかなと。

村川:『ツァイトゲーバー』のケースは特殊だったんだと思います。ただ、確かに今回の作品は、初演がここで作られたということはさほど重要ではなく、その時々の時間はそのままでよいので、今日であれば今日、明日では明日で成立する。

編集が物語をつくる

村川:この作品のきっかけのひとつに、ドキュメンタリー映画のように作ることができないだろうかということがありました。演劇は、全員が同じゴールに向かって仲間になって突き進むじゃないですか。でも、ドキュメンタリー映画だと、取材対象は、もちろん協力はしてくれるんですけど、映画が面白くなろうがならなかろうがどっちでもいいんですよね。ずっと他人のままで、記録だけが残る。別に僕のことはどうでもいいっていうような関係性で映画が生まれるっていうことが、いいなあと思って。

三輪:取材対象が他人であり続ける状況っていうのを、ポジティブに捉えているということですか?

村川:そうですね。『ツァイトゲーバー』の彼もそうで、自分は仕事を再現してくれと言われているだけ、ということで、もっといい作品にするにはどうしたらいいかってことを2人で考えるようなことは一度もありませんでした。僕は劇団を持っていないですけど、もし作るとしても常に他者でいられる人をメンバーにしていくんじゃないかなと思います。

三輪:それは村川さんがもともと映画で考えていた方法論を演劇に持ち込んでいるということだと思うのですが、そもそも映画と演劇はメディアが違いますよね。演劇でも、映画と同じようなポジティブな効果が得られたのか、それとも、別の何かが起こったのでしょうか。

村川:ポジティブな結果が出ているんじゃないかと思っています。あと、実はあんまり深く考えずに方法論を移植してるんですよ。むしろ、映画と演劇が自分の中でごちゃまぜになっている。だから、突飛なことだと思っていないし、自然なことのようにやれているんじゃないかな。まあ、演劇でやってみたら後から困ることもあるんですが。

三輪:『エヴェレットゴーストラインズ』は、劇場や舞台といった演劇の条件を前提に成立していたと思うのですが、そういったジャンルの境界や、演劇との距離感の取り方って、どのようにお考えですか。

村川:結構楽観的です。演劇やるなら劇場でやろうっていう。その中でどうやったら面白くなるかっていうことを考えるので、あまりそこで悩まないですし、こだわっていません。

三輪:意外ですね。

村川:ブラックボックスも好きなんですよ。こういうこと言う若い演出家は少ないと思いますけど、大好き。

三輪:一般的に、演劇では物語を作るという印象が強いと思います。ドキュメンタリー映画でも、物語をもっているようなものもありますよね。村川さんは物語ということに対して、どんなスタンスでいらっしゃいますか?

村川:もともと、ストーリーを書かなくても、物語は勝手に生まれるようなものなんだという意識があって。映画でも演劇でも、自分の感覚として大きいのは、編集でしょうか。たとえば最初に人が出てきて立っていることに、何分かけて、その次にどのように移行するか、とか。そこの判断は、言葉で説明しようと思えばできるんでしょうけど、感覚的な気持ちよさというか、編集の快楽みたいなものを手掛かりにやっているところがあります。その積み重ねの上で最初から最後まで通した時に、物語のようなものが見えてくる。だから、あらかじめストーリーを書くというよりは、編集によって物語が出来あがっていくような感覚でとらえています。
世代も関係しているんじゃないかな。僕、子どものころからずっと、テレビ番組をダビングしたビデオを切ってつないだり、好きな音楽で自分だけのカセットテープをつくったりして遊んでたので。

編集:和田ながら(KYOTO EXPERIMENT)

■村川拓也アーティストトーク KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2014 関連イベント
2014年10月6日 京都芸術センターにて

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