舞台芸術

対話と移動、身体を通して問いを発する

2014.07.15

JCDN国際ダンス・イン・レジデンス・エクスチェンジ・プロジェクトVOL.4 日本―米国 共同制作プログラム   『父のような自画像 portrait of myself as my father』『熱風』

ジンバブエ出身でニューヨークを拠点に活躍する振付家・ダンサーのノーラ・チッポムラさんが、2014年8月の1ヶ月間、京都芸術センターで滞在制作を行い、新作『父のような自画像 portrait of myself as my father』を発表します。また、映像作家・演出家の飯名尚人さんの作品『熱風』にも出演します。ノーラさんと飯名さんのお二人に、それぞれの作品やコラボレーションについてお話を伺いました。

『父のような自画像 portrait of myself as my father』について


―ノーラさんの新作『父のような自画像 portrait of myself as my father』についてお聞きします。作品づくりを通して、「父と私」の関係をどのように考えていらっしゃいますか?また、なぜ「母」ではなく、「父」なのでしょうか?


ノーラ:子供の頃に父が離婚したので、父の存在は私にとってずっと大きな穴でした。今の年齢になって、父との関係とか、父性とは何かということを再構築したいと思うようになりました。
なぜ「母」ではないかというと、ずっと母に育てられてきて、私は母親の分身のような存在なので、母親を作品で構築して、客観化する必要がないんです。作品にしようとすると、再構築する必要がある父ということになるのかなと。要は、自分の中にないものを再構築しようとしたら、それが父だったということです。

同時に、自分の知らないものを再構築するので、非常に挑戦的なことでもあります。さらにそれが男性である、つまり自分のジェンダーではないものだから、今までやり慣れてきたオハコを出ることになるので、それをやってみたいとも思いました。

もちろん、自分の身体が女性的であるということは、女性として生まれたという生物学的なものだけでなくて、仕草やしゃべり方など、社会的に女性化された身体だということです。今まで生きてきた中で刻み込まれた女性の身体性が、どれくらい男性性を踊れるのか、ということにも興味があります。

だから、『父のような自画像 portrait of myself as my father』という作品は、自分の父親という個人的な切り口から、どこまで遠くに行けるのかという試みだと思います。自分の父親を通して、父という存在や神の存在、なぜ英語で神は「He」という男性の人称なんだろうとか、もっと大きい概念につながると思うんです。

前作の『rite riot』(2013)では、「春の祭典」をテーマに、女性の身体がいかに消費されているかを扱いました。でも、男性の身体も実は消費されているのではないかと思ったときに、今回の新作は続編として、自分の父を通して男性の身体性について考えようと思いました。でも、あくまでメディアは私の女性の身体です。だからこの作品はいくつもの層になっています。nora1

―自分と父との関係という非常に個人的なもの、社会的・歴史的に構築されてきたジェンダー、そしてジェンダーと消費や演じるといったことですね。


ノーラ:女性の身体が例えば広告媒体で消費されているということはよく指摘されますが、男性の身体が消費されていることは、あまり指摘されません。でも実は、同じくらい消費されているということを、この作品を通して伝えたいです。

エンターテイメントの領域では、女性の身体の方が消費されやすいけど、では男性の身体はどこで消費されているのか。多分、家族というシステムの中なのではないかと思います。欧米では宗教や国に対してノーと言えるようになってきたけど、最終的に残るシステムは家族だと思うのです。その中ではまだ、「父親はこうあるべき」という理想像が求められていて、かなり崩れてきているけど、まだまだ男性はそこから出られない。

私の場合、社会ではこれだけ重視されている「男らしさ」が自分の家にはなかったので、「男らしさ」って何だろうという疑問が自分の中にありました。今回、父を題材とするわけですが、私は父のことを知らないので、肖像を描こうにも描けない。でも、知っていたら個人的な話で終わってしまいがちなんだけど、逆に知らないからこそ、「男らしさ」の概念というもっと普遍的なところに行けるのではないかと思っています。そうした「父親像」の行く先が、毛沢東やローマ教皇など、国や共同体のあり方にまで行くかもしれない。そこに身を置く私たち自身に「それでいいの?」と問うことができれば。父親という個人的なキーワードを通して、もっと大きな問いかけを発したいし、私の身体が男性の仕草をすることでそこまで飛んでいけるかどうか、大きなチャレンジです。


―ノーラさんにとって、ダンス作品を作る、自分の身体を通して問いかけることは、どういう根源的な意味を持つのでしょうか?


ノーラ:美術であれ、音楽であれ、全てのアートの表現はパワフルですが、その中でもダンスや身体表現はリアルでウソがつけないし、録音された音じゃないから、という意味で一番パワフルなのではと思っています。

それだけパワフルなものがステージ上にあって、それを見ない、あるいは理解しないということは、人間の尊厳や生きていることを否定することであり、ひいては戦争や人種差別といった行為につながるのではと思っています。


『熱風』でのコラボレーションについて


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『熱風』[第3幕 映画]より


―まず、『熱風』でのお二人のコラボレーションのきっかけについてお伺いします。


飯名:『熱風』では、写真家、俳優、音楽家など様々な表現分野の作家に関わってもらっているのですが、ダンサーの出演を考えた時に、直感的に「アフリカ人のダンサーに出演してほしい」と思いました。


―どのようなイメージや期待を持ってオファーされたのでしょうか?


飯名:まず、舞台美術として作品の中で写真家の平野正樹さんの写真を使わせていただくのですが、彼と作品のアイディアをしゃべっている時期が長くありました。その時に、彼が「種(たね・しゅ)」の話を始めたんです。それが「人類の種」の話になっていき、人類の発祥の地として「アフリカ」が話に出てきました。平野さんは、ノーラさんの出身地であるジンバブエに取材で行ったことがあって、「アフリカ人の根源的な強さ」という話を聞いた。その時は、「自分の作品にアフリカ人に出演してほしい」とは全然考えていなかったんだけど、無意識に彼の話が下地になったんだと思います。

だから、どんなダンスが良いか、どんなダンサーが良いかというイメージよりも、そういう強いアイデンティティーを持った人に会いたい、という気持ちがありました。


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Rite Riot / Nora Chipaumire © R. Etienne / item (nov 13)


―実際にノーラさんのダンスを見てどう感じましたか?


飯名:映像で見たのですが、「やっぱり、この人だ」と思いました。直感なんだけど、自分が考えている『熱風』という作品は、「この人がいてくれたら絶対にできる」と思ったんです。別にアフリカンダンスを期待していた訳でもないし、ただ黒人という身体を期待していた訳でもないんだけど、映像で彼女のダンスを見た時に、僕の中で色んなものがつながったんです。不思議な体験でした。


―今度はノーラさんにお聞きします。飯名さんの作品に出演をOKされたのは、どういう魅力を感じたからでしょうか?


ノーラ:普段はあまりコミッションを引き受けないのですが、演出家と一緒に作業をするということに興味を持ち始めた時期だったんです。今まではソロ作品で、自分で自分を演出してきたのですが、第三者の視線をどう自分の身体に取り入れるかということをやってみたいと思っていた時期でした。良い意味での妥協もあるけれど、1+1が3になる可能性もある訳で、それを見てみたかったので承諾しました。

また、アジアに来るのが今回初めてということもあります。これまで自分の作品の中で、アフリカのステレオタイプに対して戦ってきましたが、同時に、私の中でもアジアに対するステレオタイプがきっと存在するので、そこを掘り起こすのが面白いなと思いました。

ステレオタイプという概念は、アート作品を作る際にネタとして面白い切り口だと思っています。ステレオタイプは必ずしも悪いことではなく、それをきっかけにもっともっと深い所に行けるチャンネルだと私は思っています。

実際に飯名さんにお会いして、『熱風』という作品が色んな対話が何層にも積み重なってできているということを理解して、彼との対話がすごく面白いものになるんじゃないかなと思っています。飯名さんは、自分の持っている疑問を、他の人との対話を通して追求しているんだと思います。今回は、私の身体性を通してそうするのではと予感しています。


―今のお話の中で、「対話」や「移動」がキーワードとして出てきました。ステレオタイプや常識に対して問いかけるのがアートだとすれば、アーティストのできることや特権として、色んな異なる環境や文化の中に移動して対話をしていくことが、今後どんどん重要になっていくと思います。今回のコラボレーションでも、「対話」や「移動」が重要な要素だと思いますが、それについて、お二人の考えをお聞きかせください。


ノーラ:アーティストにとって大切なのは、白黒だけではなくて、その中間を取ることです。例えば黒人女性のステレオタイプというと、エネルギッシュ、強い、セクシーなどと言われます。確かにそういう面もある。ただ、優れたアーティストの仕事は、ステレオタイプを使って、そこからなるべく遠いところに観客を連れて行けるかどうかです。ステレオタイプの肯定で終わってしまったら、それはもうアートではない。人の思い込みを足掛かりに、どこまで飛んでいけるかがアートにとって重要だと思っています。

また、どこかに行くこと、場所を移動することというのは、何かを学ぶことに強くつながっていると思います。もちろん現代では、インターネットで日本の動画を見ることもできるけど、やっぱり実際の空間に身を置いて、肌で感じることや、神経のレベルで理解できることってあると思うんです。そういう意味で、色んなところに行って対話するというのは、アーティストのできることであると同時に、特権だと思います。


飯名:その通りだと思います。今僕のやっている創作プロセスというのは、造形物を作る作業というよりも、ひたすら相手との交渉なんです。「こういうことをやりたいんだけど、どう思う?」「シナリオを読んでみてくれる?」とか。単にアーティストと観客の対話を作ろうとしているんじゃなくて、作り手であるアーティスト同士の対話が豊かであればあるほど、観客にも伝わるものがあると思うんですよ。


ノーラ:今の話を聞いて、飯名さんの制作プロセスは、演出家と出演者という関係の構築ではなくて、もっと個人的なレベルでの関係性の構築ではないかと思いました。それは非常にリスキーなことでもあるけど、私が今までやってきたこととすごくつながっている。私は自分の個人史を掘り起こして観客に見てもらうことで、観客もパーソナルになれる場所を作ってきたと思うんです。もちろん、社会の中にはヒエラルキーはあるけど、私は、皆が裸になれる場所を自分の身体を通して作ってきたと思う。『熱風』というこの作品がやっていることも一緒なんじゃないかと思いました。


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■取材:2014年6月29日 京都芸術センターにて

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