─プロダンサーとしてヨーロッパで活躍されてきたわけですが、幼い頃もヨーロッパにいらっしゃったことがあるのですよね?
はい、父(バイオリン製作者)の仕事の関係で、2年弱イタリアに住んでいました。3歳の頃のことです。その頃のことって、意外とよく覚えているのですよ。人の記憶って色々なことが混ざり合うので分からなくなってしまうのかと思うのですが、幼い頃の記憶のなかで、イタリアにいた時のところだけ色合いが違って。
幼稚園に行っていたのですが、言葉が分からない。みんなしゃべっているのだけれど、自分の中だけがシーンとしている。音が響く石造りの建物の中で話し声が聞こえるのに自分の中だけが静かというのが鮮明に記憶に残っています。
その頃って言語が作られる時期だと思うのですが、自分が何か感情を覚えて、それは日本語にはピッタリの言葉があるけど、イタリア語にはないとか、その逆とか、言葉には重なり合わない部分があるのを実感して……。それに対して、踊りって言葉を介さないで直で感じるものじゃないですか。言葉で他者と共有できないことも共有できる可能性がある。この時感じた感覚が、自分がやりたいことの原点になっているように思います。
─それで、バレエを始められたわけですね。
最初、イタリアでテレビの天気予報のバックで踊っている人を観て、母に「あれがやりたい」って頼んだんです。ヨーロッパではバレエは、子供が習うものとして日本ほど一般的ではなくて、子供の教育というとリトミックなど。でもリトミックを見てみたけど、ちょっと違う、体操教室も違う。そうこうしているうちに日本に帰って来て、日本で人づてに紹介してもらって5歳からバレエを始めました。
でも「バレエ」という意識は希薄で、“踊りを通しての表現”を求めていたという感じです。
─小さい女の子がよく言うような「バレリーナになりたい」とかいう感じではなかったわけですね。
私が子供の頃は今と違って、バレエを習っていても、オペラ座とか海外のバレエ団なんて別次元のもの、無関係のものに思えて。どうやったらなれるのかも分からないですし。
それより何かの“媒体”になる、自分は踊りでそういう役割を果たせたらと漠然と感じていました。
─そう感じながら、熱心に日々レッスンに打ち込んで、ローザンヌ国際バレエコンクールでプロフェッショナル賞を受賞、ヨーロッパに飛び出された。
まず、ジュヌ・バレエ・ド・フランスという若手のバレエ団に入りました。土着のダンスからバレエ、現代のダンス、アメリカの商業的なダンスなど、ダンスの流れを表した教育的な作品を学校を回って上演したり、夜には大人向きにヌーベルダンスを上演したりというバレエ団でした。そこで初めて、マチルド・モニエの新作上演に関わることができて。メシアン作曲の『世の終わりのための四重奏曲』という現代音楽での作品でした。すごくのめりこんで「振付家と創っていくって素敵だなぁ」と。その後、パリでナディン・エルネという若い振付家と出会い、作品の創作過程を垣間みたことをきっかけに、創作の世界に憧れ、そういう仕事を求めてオーディションをいろいろと受けました。ただ、今のようにインターネットで情報を調べて──という時代ではありませんから、風の便りというか(笑)、もうこんな感じ(と、目を閉じて手探りのしぐさ)。オーディションに誰かが行くというと便乗したり。
そんな感じでモナコのモンテカルロバレエ団に入って、そこにいた時に、イリ・キリアンの作品に出会いました。
─それはどんな作品だったのですか?
シェーンベルグの曲に振付けられた『浄められた夜(浄夜)』という作品でした。詩が元になった曲に振付けられたものです。内容は、少し話すのに照れてしまうのですけれど、夜、男女が歩いていて、女性が「私には子どもがいるけど、あなたの子じゃない」と話す──とても美しい作品です。この作品に出会って、それまでの何か仕事を探すというオーディションめぐりとは違って、モナコでの仕事はあるのだけれど、この振付家と仕事をしてみたい、だからオーディションを受けようと。
─それで、ネザーランド・ダンス・シアターのオーディションを受けて、見事合格された。それから9年間、長く信頼されていらっしゃったわけですよね。
ネザーランド・ダンス・シアターはみんな長いんですよ。
─そこで、踊るだけでなく、作品作りも手がけられるようになっていかれたのですよね。
ネザーランド・ダンス・シアターには「ワークショップ」と呼ばれる公演があって。それは、所属ダンサーが作品を創って、集まった作品でチャリティー公演をするというものなんです。これはネザーランド・ダンス・シアターのメインカンパニーも若手カンパニーもベテランダンサーのカンパニーも(註1)、一緒に参加します。私がその時創った作品で記憶に残っているものですか?『一粒の砂の中に』というソロ作品です。ウィリアム・ブレイクの詩に振付けたもので、一粒の砂の中に世界をみる、という。
─そういえば、今日も砂が出ていましたね。
そうですよね。それに今日、思い出したのですが、NDTを退団してから自作自演ソロ作品のトリプルビルで発表したのも『サンドフラワー』、『砂の花』という作品でした。
─ところで、日本に帰ろうと思った理由はなんだったのでしょう?お聞きしていると、まだまだ日本よりヨーロッパの方がプロとしてダンスを創るのにも踊るのにも良い環境のように思うのですが。
作品の理由を聞かれた時も「後づけの理由」になったりするのですが、日本に帰ってくることに関しても先に「帰ろう!」と決めてしまい後づけ、になっているのかも知れないのですが……。
子供が小学校に上がるようになって、小学校の説明会に行ったんです。私はそれまでずっとインターナショナルのフィールドに属していて、そこにはそこ独特のメンタリティがあるのですよね。娘を通わせようとしたのはオランダの学校で、オランダ独特の風習や約束があるところです。日本の学校ともずいぶん違う。オランダ語は一通り分かるのですが、説明会に行って「そうしてください」って言っているのか「そうしないでください」って言っているのか、まったく180度違うんですが、それがどちらか分からない。「そうしてください」って、だけど、それはなんだか変だな……とか。子供を育てるのに自分の母国語で育てないと、きっとゆくゆくすごく後悔すると思って。
日本に帰って来てみたら、ヨーロッパにいたのでは受けることができなかった刺激、要素をいろいろと受けることができた。良いことがたくさんあります。
─今後、どんな作品を創って行きたいですか?
最近、自分の中で大きく変わって来ているものがあるのをすごく感じます。若い時は「踊りたい!」「表現したい!」というのが強かった。でも、それがだんだん、「今、生きている他の人のために、どんなものが役に立つのかな」ということを考えるようになってきました。社会全体のためにどんなことができるのだろう、ということ。これまでは、自分が食べたいものを作っていたのが、相手が何を食べたいのか考えるようになったという感じです。
例えば、ダンスによって、人が普段封印しているものを取り出すことができるのではないかとか、人間が尊厳を持ってどういう風に生きたら良いのかと考える時に力になる作品を作りたいとか。それも、難しくて解る人しか分からないというようなものではなくて、例えば宮崎駿さんのアニメは子供にも分かりやすくて、大人にも楽しめるものというだけではなくて、深い感銘がありますよね。芸術でしかできないこと、隠れた部分を解き放つような時間を作ることができたら……と。今は、まだすごく力不足だと感じますが……。
─中村さんの作品を観ていると、繊細でまっすぐな視線を感じて心に直接響くものがあると思います。だから、考えていらっしゃるような素晴らしい作品もいつか出来上がってくるような気がします。これからのご活躍も本当に楽しみにしております。
註1)ネザーランド・ダンス・シアター(NDT)では、メインカンパニーをNDTⅠ、若手カンパニーをNDTⅡ、ベテランカンパニーをNDTⅢと呼ぶ(NDTⅢは2006年までの活動)。
■取材:2013年12月21日 京都芸術センターにて
■記事内画像:KAC Performing Arts Program 2013 / Contemporary Dance
中村恩恵リサーチプロジェクト 中村恩恵新作公演『Inner Garden』
(2013年12月20日~22日、京都芸術センター フリースペース)
撮影:草本利枝 提供:京都芸術センター