舞台芸術

「表現の自由」の公共性について

2014.01.20

舞台芸術制作者オープンネットワーク シンポジウム 「表現の自由をめぐって」レポート 2

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表現をする側の自主規制


橋本:その表現によって損害をこうむる人がいるかもしれないという考えに立つことで自主規制をしてしまう現場について、考えていきたいと思います。KYOTO EXPERIMENTの話をすると、先ほど吉岡さんの話で出てきた、高嶺格というアーティストの作品を京都市役所前で発表することになった時にポイントとなったのは、騒音の問題だけでなく、作品が扱うテーマ、「ジャパン・シンドローム」と名付けられた震災後の日本の社会状況を取り扱ったテーマについて、簡単に言ってしまえば、それが政治的なメッセ-ジを含んでいる作品だとして、公共の場で発表することに対して議論が起こりました。ですが、京都市役所前という場所だからこそ、色々な今の社会の状況について、色々な意見や問いをぶつけることで、作品の意義が高まるんだということを繰り返し説明しながら、あの場であのパフォーマンスを実現できるよう交渉していきました。

そこで原さんにもお伺いしたいんですが、公共というものの大きな部分を担う行政の立場として、政治的な表現、あるいは性的な表現や暴力的な表現というものがあった時に、それをどういう距離感で捉えて、発表するしないを考えられるのでしょうか。


原:いくつかジャッジする判断基準があると思いますが、ひとつはやはり法的な問題があります。例えば公共の福祉に反しない範囲で認められると、一応、憲法には書いてあるわけですよね。そして、公務員に法を守る義務がある以上はそれについて当然考えを巡らせないといけません。「公共の福祉とは何なんだろう」、「具体的に顔が見える市民は、どう思うんだろう」ということをやっぱり考えるわけですね。例えば劇場の中でなにか裸でダンスをする公演があるとして、年齢制限があるならば問題ないだろう、という判断をしたりするわけですね。

それが単純に技術的な問題ではなく、表現内容自体、そこで発せられるメッセージに関わる場合は、基本的には判断出来ません。行政としては、それが表現として問題になるかどうか、そういったことを明確に判断する基準を持っていないわけです。例えば、猥褻性などは、従来から判例が積み重ねられてきていて、一定の判断基準というのがあるわけですけれども、そうでない色々な問題が次から次へと出てきて、その問題に判断基準が無い場合、行政の恣意的な判断でそれを止めてしまうということはしにくいわけです。行政は、文化芸術に助成金などの形で支援します。ただしその内容については口を出しません。支援するために手は届くようにするけれど、口は出さないという方法ですね。

とはいえ、ここでもう一つ考えないといけないのが、価値の対立が現実問題として起こってくる場合です。例えば、先ほどの高嶺格さんの市役所前広場での議論について、市役所の中でも大いに懸念する声はありました。原発の問題を扱っていて、原発自体がいいとか悪いとかを言う作品ではなかったんですけれども、例えば通りがかりの方がそれをちらっと見て、市役所は原発は駄目だと言っているとか、あるいは推進しているという誤解を受けることがあり得るわけです。ただそこは、喧々諤々の議論があった上で、「文化芸術の担当部署として作品の内容に口を出すようなことはしません」という判断をしたわけです。今申し上げたのは、価値の対立がそういう形であり得るということですが、その時に必ず必要なのが、「コミュニケーション」ですよね。例えば、夜、市役所の前で爆音を出すという時に当然その周辺に住んでおられる方、お商売をなさってる方と、コミュニケーションをとっていかないといけない。価値の判断を避けるのではなくて、それがどういう価値があるのかということについて、コミュニケーションをとっていく。恐らくそれは、民主制の本当の意味だと思うんです。多数決ということじゃなくて、きっちり話し合いをして信頼関係をつくっていくということが。


橋本:今、原さんのお話の中で「コミュニケーション」というキーワードが出てきました。何か表現を行った時に価値の衝突が起こった場合、それをコミュニケーションによって、つまりルールで制限していくのではなく、当事者同士のコミュニケーションによって解決していくということが重要ではないかというお話でしたが、今コミュニケーションの在り方そのものが、色々なツールが増え、サイバー空間も含め変化している中で、どういうことを考えていくべきか、吉岡さんにもお話いただきたいと思います。
つまりコミュニケーションの質が変わることにより、価値の衝突が起こっている。それは解決の方向だけにいければいいですが、新しいメディアが逆に衝突を不毛なものにしていたり、ネット空間では単なる口論となってる場合もある。そのことが、表現にも何らかの影響を与えているんじゃないかと思うんですけれども、そのあたりお聞かせいただけますか。


吉岡:その前に、僕が言ったことで誤解されていると困るなと思うのは、僕は、芸術表現の場合は価値がなんとかと言いましたけど、別に価値があるものしか自由を認めないと言っているんじゃなく、やっぱり価値について話し合うことが大事だということが言いたいわけです。今の原さんの話がまさにそういうことだと思うんだけど、価値の対立があると。僕も京都ビエンナーレとかやるときに、行政の人とか一般の人に色々お願いする、ここでやらせてくださいと。価値の対立ももちろんあることはあるけど対立よりもっと多かったのが、こっち側が認めている価値に対するなんかわからないけど漠然とした不安があって、そこでコミュニケーションが大事だと思ったんですよね。
それで、インターネットとかソーシャルメディア等の発達による新たな表現規制の問題ですけど、確かに橋本さんがおっしゃったように、それらはコミュニケーションのツールだと言われるけど、コミュニケーションを阻害するツールでもあるんですよね。ネット上の言説というのは、それこそ価値があるかと言うと、90何パーセントないですよ。もちろん価値があるものはあるけど選り分けるのが大変です。例えばさっきのヘイトスピーチみたいなものもあるし、2ちゃんねるとか、嫌な思いをするだけだから僕は覗くのも嫌だし。僕の考えではネット上の言説というのは、あるといえばあるし、ないといえばないと思います。だから見なければいいという部分が大きくて、そういうものとして扱わないとまずいだろうなと。こんな風に一般の人が朝から晩までスマートフォンでメールしたりしている状況はここ十数年のことだと思うんですね。だから、我々の身体や生活習慣が、まだそれに適応していないと思うんですよ。今ちょうど混乱している状況だと思っている。ソーシャルメディアの中での表現、色んな作法みたいなものはまだ固まっていなくて、僕らは口頭のコミュニケーションとか体面的なコミュニケーションのモデルを適用しているので、ネット上の言説に過剰に反応している、そういう段階だと思うんですよね。だからネット上で誹謗中傷されて子どもが自殺したりとか、ああいうことが起こってしまうんだと思うんです。だから規制するという方向で動いている人もいるけど、これは規制だけでは絶対に解決できない問題で、ネット的なコミュニケーションと、我々の生活や身体とが、今はどっぷりつかっている感じだからもう少し冷めて距離を取るように持っていく必要があるんじゃないですかね。規制だと逆効果の方が多いんじゃないかなと僕は思います。もちろん過剰にひどいものは規制しないといけないと思うけれど。


舞台芸術における「公共」について


橋本:なるほど。ありがとうございます。表現の場における公共性というか、「公共」という言葉についてお考えを伺いたいんですが、特に舞台芸術は、基本的にある空間のある時間に不特定多数の人が集まって、作品を発表するというのが一般的に捉えられている形態で、そういうものが発表される場所のことは公共的な場と言われます。そこで一体公共的な劇場っていうのは誰の場なのか、それを指している「公共」とは一体どういうことなのか、今後議論を深めていきたいと思っています。もし舞台芸術のフィールドじゃない方々がどういう風に劇場のような場所における「公共」をお考えになっているのか、今後の議論に引き継ぐ為にもお聞かせいただきたいです。


吉岡:僕は大学の修士論文で、ユルゲン・ハーバーマスというドイツの哲学者のことについて書いたんですけれども、その人の著書に『公共性の構造転換』という有名な本があって。簡単に言うと、要は公共性とは色々な人が私的な意見を発表して、それに対して応答が返ってきて議論が生まれる可能性のある場を言っていたんだけれども、それがいつの間にか高度に発達した消費社会の中では、誰にでも気に入ることしか言ってはいけない場に変わったと。よく言うじゃないですか「公共の場で私的なことを言って」みたいな、非難するようなこと。でも本来公共の場というのは私的なことを言う場なんですよね。単なる私的な会話とどこが違うかというと、例えば僕が自分の意見を言っても、それに対して応答が返ってきて議論が発展するということがあれば、そこに公共性が保たれる。「責任(Responsibility)」っていうのは、「応答可能性」のことだから、要するに自分が言ったことに関して何か返ってくればいい。それに対して自己規制というのは、「はじめから応答が返ってこないようなことしか言わない」ということだと思うんですよ。


原:行政、京都市役所の立場から言いますと、一応頭に思い浮かべないといけないのが「市民」というぼんやりとした顔の見えにくいグループなんですよね。147万人、人数としてはおられると。気をつけないと、「公共」という、実体がありそうでないようなものをぼんやりと扱うことになってしまう。その時に僕がこういう風に考えないといけないと思っているのが、自分が想像できる限りで、一番自分から遠い人をイメージするんです。例えば僕は30代の男性で、核家族で暮らしていて、割と文化芸術が好きな人間。そこから一番遠い人間を頑張って想像する。で、そういう人間が僕の存在を、市役所の存在を批判してくるような事態があっても、それで破綻してしまうのではなく、維持されるような空間というものを考えていかないといけないなと。それが「公共」ではないかなと思っています。劇場・舞台というのは、一番そういうことがラディカルに味わえるというか、現れる場ではないかなと思うんですよね。そういう意味が劇場にはあってしかるべきであろうとは思います。


斎藤:また法律的な話ですが、憲法21条で保障されているんですけれども、表現する側の「表現の自由」と一緒に、受け取る側の知る権利も保障されていて、それはもう常にセットで考えないといけないというのは昔からの通説なんですね。その表現のやりとりの為になにが必要かというと、「パブリックフォーラム」と憲法の世界では言われていますが、そういう常に情報が双方向でなければならない公共の場というのが絶対に必要なんです。そういった意味で例えばダンスミュージックにおけるクラブというのは、比較的小規模で何をやっても許されるような、リラックスしていて、あまり経済性も追い求めなくてもいい小さいハコで他愛もない色々な表現が、双方向のやりとりの中で生まれ育っていく。場合によってはメジャーなところにそこから押し出されてくる、そういう土壌として機能しているんですけれども、劇場というのも同じようなところなのかなと。そこで重要なのは、最大公約数の人たちを楽しませるだけじゃなくて、「何が起きるかわからない」ということをちゃんと楽しめるような受け手側の教育の場も必要なのかなと。多分お客さんもよくわからないで行くんですけれども、それを「こういうのもありなんだよ」と、教育するというか、お客さんは教育を受けてどんどんまた新しいものに眼を開かせてもらうというか。予定調和ではなく、全然知らない授業を受けに行く。そして何か学んで帰ってくる。そういう感覚がいいのかなと思っていますね。


業界としてビジョンを描くこと


橋本:最後の議論に移っていきたいと思うんですけれども、丸岡さんがおっしゃったように何かあった時に動けるようにしておくことが必要だろうということがあります。実際クラブミュージックやダンスに関しては、レッツダンス署名推進委員会が実際に組織立って行動してダンス文化推進議員連盟というものが設立されるに至りましたけれど、演劇やダンスという部分においても、何らかの状況によって今までの活動が継続できなくなるということが起こらないとは言い切れません。そういった時に具体的な行動に移すためにどんなことが考えていけるのかということをレッツダンスの課題と展望を元にしながらお話を展開していきたいと思っております。レッツダンスが15万筆の署名を集め、議員連盟を作ったというのはすごいことだと思う一方で、これだけ時代に合わない風営法というものが変わらずにきた。組織立った動きをしたからといって、即法律が変わったわけではない。恐らくプロセスには大きな困難が実際にはあるんだろうと思うのですが。


斎藤:一番重要だと思ったのが、業界としてのビジョンみたいなものがないと、とんでもない方向にいくなとは思っていますね。市民・アーティストの意志を受けて15万の署名が集まって、法改正をして欲しいと国会に届けた。国会議員もそれを受けてやっぱりダンスって文化的にすごくて、教育面でもどんどん取り入れられているし、世界スタンダードで語ることができるとてもポテンシャルの高い文化であり、経済効果も上がるだろう、ということでしっかりと受け止めてくれているんですね。じゃあもう法律を変えたらそれでいいのかというと、クラブ業界・ダンス業界として本当に法律を改正して耐えられるのかという問題があるんです。今までグレーゾーンの中でやってきたんですが、今度法律が変わった時に例えば新規のとても大きな資本を持った企業が入ってくる。例えば、極端なことで言えばもしかしたらディズニーランドみたいなクラブができるかもしれないですね。子どもから、お年寄りまで楽しめる。そういう場がもちろんあっていいと思うんですけれども、ただそこで音楽のクオリティはものすごく低いものができてしまうかもしれない。これは今単純に思いついただけで、そういう話が実際にあるとかいうことじゃないんですけど、例えばそういうことがあるかもしれないですし、あるいは反社会的な方々がお酒と女の人でお金を稼ぐ為にどんどん参入してくるかもしれない。そこは業界としてどういうビジョンを持って今後のダンスカルチャーを育てていくのかをちゃんと考えておかなければいけないなっていうのがあるんですよね。クラブユーザー・ダンス愛好家・あるいはそこでプレイするアーティストは、それぞれこうなったらいいよねという思いはあるんですけれども、そこはクラブ業界がなかなか踏み切れないところで、法律改正をするにあたって一番今ネックになっているところかなと思いますね。ちょっと話を続けますと、例えばクラブ業界としてまとまって何らかの意見を政治に向けて発信していく。業界としてビジョンをまとめてそれを国会議員にプレゼンしていくことができるかどうかというところに懸かっていると思うんですけれども、そこはなかなか難しいところですね。なので、舞台芸術制作者についての集まりというのは、今後とても重要になってくると思うんです。
僕がより強調したいのが、ある程度まとまって業界のビジョンを作っておかないと、どう法律を改正するかという時にミスマッチが生じかねません。業界で一番声の大きい人があたかもみんなを代表しているかのように、もしかしたらその人が特定の議員と話をして、特定の議員とその一人だけで全ての業界を設計してしまうような法律に変えてしまうとか、そういう危険性がありますね。


橋本:本日は長時間にわたって興味深いお話をありがとうございました。


■取材:2013年10月14日 京都芸術センター 大広間にて

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