美術

メディアとしてのギャラリー

2013.08.01

VOICE GALLERY移転ドキュメントⅠ「大空間の大実験を振りかえって」

美術の場としてのギャラリーの可能性、批評の発生する空間としてのギャラリーの有り様について。VOICE GALLERYの移転にあわせて実施された座談会です。ギャラリーとしての矜持とは?

「出町→東九条→富小路高辻 転換の物語」 松尾惠




松尾:本日はお集まりいただき、ありがとうございます。みなさんご存じと思いますが、この度、この東九条から富小路通高辻の古い町並みの中にVOICE GALLERYを移転することになりました。東九条での4年半の間に、京都の、さらに日本の美術も随分様子が変わり、翻弄されながらやってきました。今回は、よく言えば、先読みをして、環境を変えるための移転です。最初にVOICE GALLERYの歴史をお話ししておきたいと思います。私は1980年に京都市立芸術大学を卒業しました。80年は、テクノミュージックやニューペインティングが出始めた頃で、いろんなものが一気に個人へと熱していく勢いがありました。



もともとは作家活動をしていましたが、今もそうですが、美術を目指す若いアーティストの仕事のひとつ、画廊の店番をやっていた時に、スペースをひとつ任せるのでやらないかと。四条河原町を下がったところにあった梁画廊の梁さんという近代のアジア経済史がご専門の方がオーナーでした。そこは日韓をつなぐような芸術の取組と、日韓の文化史をひもといていていくというような奥深い活動をされていました。その同じビルの4階の一室に梁画廊のRと、梁画廊が非常に懇意にしていたRギャラリーのふたつのギャラリーの共同運営ということで、R2ギャラリーという名前でオープンしました。ところが翌年、梁画廊が閉廊。その時までに私の手元には、すでに知り合った作家さんの名簿400~500人分があり、後にひけない感じで、河原町今出川の清和テナントハウスという倉庫の一室を借りました。


86年に入居した時には、他にも建築家集団の聖拙社や劇団の事務所があり、87年にはダムタイプ(1)がやってきて次々に名作を生んでいきました。ダムタイプと隣人同士だったのは、17年間。2005年に、彼らは、西陣の元染工場だったところを改装し移転。その後、私は、清和テナントハウスのダムタイプのオフィスだったところも借りて、ギャラリーを拡大していきました。当時は、作家とお互いに混沌としたものを抱えたままやっていましたが、現在はその中から世界的に活躍する人も出ています。2003年ぐらいから作品が売れる、という時代がやってきます。自分がコントロールしてそうなったのではなく経済的な流れの中でですが、それまで私がやってきたことと時代がマッチし始めたのかもいしれない。ちょうどその時に、この東九条の場所が空いているということで、お借りすることになりました。



ここでやってきたのは、実験的な大きなインスタレーション。ところで、京都では、貸スペースが、美術活動の支えになってきました。作家にとって、1週間いくらで借りられる場所があるのは、精神的にも物理的にも支えになりました。メディアアートの作家さん等は特に、記録をとらなければ何も残りません。作品制作の現場であり、検証の場。貸ギャラリーが果たしてきた役割は大きかった。何の規制もなく、インスタレーションが制作でき、記録を撮ることのできる条件のそろったところ。必要があればその機能も果たすつもりで5年間やってきましたが、これだけの空間を私ひとりで維持をするのは難しく、現行の助成制度にも、空間維持の支援はありません。作品を売ればいいということになるが、このサイズの作品は、日本の個人のコレクターには売れない。100号がすっぽり入る家はそうありませんので、作っても作っても売れません。このまま、展覧会というイベントを消費してもいいのか、というのが私の一番の疑問点です。そしてそれに対する私の結論は、展覧会を消費することをやってはいけない、というものです。次に移転する先は、築50年ぐらいの町家で、職住共存地区にあります。この東九条の場所は、シェルターとしては完璧でした。ただ、このようにアート本位の立地は、アートと社会の接点を探ると言った場合に、社会の方からはいつでも準備OKなはずなのに、アートの方が閉じたシェルターの顔つきをしてしまいます。これでいいのか、ということです。街中に入り込んで、他の会社やお店と同じように共存し、にじみ出ていこうと思っています。次の第3期、3か所目のテーマとしては、それを設定しました。






座談会「メディアとしてのギャラリー」



松尾:吉岡さんと私が知り合ったのはいつでしたっけ?



吉岡:先ほど松尾さんの話に出てきた梁さんが、先日、日本記号学会の年次大会の時に、京都精華大学に会いに来てくれました。僕と梁画廊とのつながりは、80年代のはじめで、京都大学の先輩の室井尚さんと研究会をやっていた時に、梁さんが画廊の機関紙を出したいと言ってくれて。美術のことじゃなくてもいい、と言われたので、僕らと寄稿者2人ぐらいを入れて作ろうということになった。ゲストのひとりは、細川周平さん。今は国際日本文化研究センターの教授で、当時『ウォークマンの修辞学』(朝日出版社、1981年)というのを書いて話題になっていた人。もう一人は、『現代思想』に連載していた浅田彰さん。その4人で書いて『NOEUD』という雑誌を作った。1号しか出なかったんだけど。頒価400円で、元々は画廊に置いておく雑誌だったけど、編集している間に寄稿者の浅田さんの『構造と力』(勁草書房、1983年)が話題になり始めて、画廊においとくだけではもったいない、書店で売れるんじゃないかと。僕はまだ大学院生だったけど、自分で書店に行商に行った。その頃はまだ、商売のことがよくわからなくてお金を回収することとか全然できてないけど、自分たちが作った本が書店で売れるということにわくわくして(笑)。梁画廊とはそういうおつきあいがあった。松尾さんとのかかわりというと、『芸術祭典・京』(2)の中で、1999年に『スキンダイブ』(3)という展覧会があって、その企画を一緒に考えたのが初め。その後、2000年に京都芸術センターがオープンして僕も松尾さんも企画委員になった。僕は、そこで『ダイアテキスト』(4)という雑誌を発行し、2003年には京都ビエンナーレ(5)のディレクターをやった。これは2015年の「京都国際現代芸術祭:PARASOHIA」(6) とは違って、京都芸術センターが母体となってやった芸術祭。でも実は、2000年から2006年まで、京都を離れていて岐阜県大垣市のIAMAS(情報科学芸術大学院大学)に勤めていたので、その期間はあんまり画廊に頻繁にいくということができなかった。2006年10月に京都大学に着任して河原町今出川に近くになったので、よく出町輸入食品(7)で珈琲を買ってからVOICE GALLERYに寄るというルートができあがった。しばらくして、松尾さんから東九条に移ると聞いて、今までと全然違う大きいスペースになることを知った。僕は、伏見区深草と師団街道の東福寺の近くで育ったので、東九条は在日の人がたくさんいて、キムチとかおいしいお店があって、なじみ深いところ。『パッチギ!』(8)という映画の舞台にもなっていて、時代的にも場所的にも親しみのある場所です。移転と同時に、松尾さんから出版物を作りたいと言われて、今、11号まで出ているのが『有毒女子通信』(9)。発行人が松尾さんで編集長が僕。「なんで女子通信なのに僕が編集長?」って聞くと、「この女子っていうのは性別だけではなく、〈女々しい男〉も含まれる」って言われて、それなら僕にも資格があると引き受けた(笑)。京都に戻った後は、頻繁に足を運ぶことができるようになったので、ここからまた移転されるのは寂しいという気持ちはあるが、お話を聞いて、ひとつの必然性を感じた。





松尾:梁画廊でそんなに関わっていらしたこと知らなくて。R2ギャラリーは4階にあったので、1階と4階ですれ違ってた。梁画廊の活動が検証される機会が少なく、京都の現代美術史の空白だと思います。高山登(10)と田中泯(11)のパフォーマンス、ダムタイプの展覧会。



吉岡:白虎社(12)の人たちが、三条通から河原町通の車道を無許可で歩いたり。



安河内:それは面白そうですね。その梁画廊は長くやってたんですか。



松尾:81年から85年。どの展覧会も特筆すべき特徴があった。ギャラリーは劇場にもなるし、シンポジウム会場にもなる、という原体験をさせてくれた場所。当時お会いしていないけれど、共通体験のある吉岡さんという言葉の専門家との関係が、その後私の活動を拡大してくれた。安河内さんとの出会いは、京都芸術センターにいらした時ですね。



安河内:いつ松尾さんと僕がお会いしたのか、はっきりと覚えていないのですが、たぶん僕が京都芸術センターで働き始めた2007年頃。その後、河原町今出川のギャラリーにお邪魔したんだと思います。そこから2年ぐらいは仕事が忙しくてギャラリーを見て回ることが出来なかったのですが、2009年に京都新聞に展覧会レビューを書く仕事をはじめて、その後、東九条に移転された後のギャラリーによくお邪魔するようになりました。



松尾:リサーチの場所としてギャラリーは濃い場所だと思われましたか。



安河内:そう思いました。僕は京都に来る前はほとんどギャラリーという場所に行ったことが無かったので、最初はシステムとか良く分からなかったのですが、見て回っていると、ある時期から、リサーチの場所としての面白さが分かってきました。もちろん、面白いことをやっている作家さんを誰よりも早く見つけようとすれば、本当は芸術系大学や作家さんのアトリエに出かけていくのが一番良いと思います。例えるなら、スーパーとか、料理店に出かけるのではなくて、畑に出かけて行って土のついた大根を見る、という感じでしょうか。いつも畑に出かけていくのは現実的にはなかなか難しいでしょうけれど。


京都では早い人だと学部生からギャラリーで発表をはじめますよね。そうやってパブリックな場で展覧会をやると、色んな人の目に触れて、意見を貰えたりして、作家さんには何がしかの変化が起こると思います。そこで重要なのがやはり、どのギャラリーで展覧会をやるか、ということだと思うんです。ギャラリーにはそれぞれのギャラリーが向かおうとしている方向性がありますよね。大ざっぱに図式化して言えば、時流に乗った作品を展示したいと思っているギャラリーから、作家さん自身が持っている問題意識に向かい合うことを促そうとするギャラリーまで。さっき僕は、ギャラリーが持つリサーチの場所としての面白さがある時期から分かった、と言いましたけれど、そうなったのはいま言った、それぞれのギャラリーの方向性が見えた時からです。どのギャラリーがどういう畑に出て行って、どう洗練して欲しいと望んでいるか、というようなことがなんとなく分かってくると、ギャラリーに行く面白さが増えてきたわけです。この作家さんはこのギャラリーでやるとこうなるんだ、みたいな驚きを感じることがあったりしますから。





VOICE GALLERY については、作家さんが持つ問題意識へとしっかりと向かい合わせようとしている方のギャラリーだという印象を持っています。その点は、個人的には、松尾さんが作家をされていたことと関係しているんじゃないか、と思っていますけれど。



松尾:自分が何かを作っているという意識は変わらない。文章を書くことも、展覧会を企画することも、場所を維持することも作ることには変わりないです。



吉岡:僕の記憶では、今から14年前の『スキンダイブ』の頃の、展覧会を企画するという時の〈のんびり度〉は今と全然違う。毎回集まっても、具体的なことが何も決まらない会議がいっぱいあった。でもそれが大事で、その時の展覧会のコンセプトに関係していた。



松尾:ビエンナーレやトリエンナーレが商品化されて、作家として歴史の中でグローバルな視点で必然性を突き詰めていけるのか。出展する人が消費されているし、卸業者としてのギャラリーというのも座りが悪い。この場所は大きな空間で顔つきとしては立派で、名古屋や東京からもリサーチャーが来る。でも『スキンダイブ』の頃は、海外のリサーチャーが東京を避けるようにお忍びで来ていたので、そちらの方がずっと面白かった。現代美術作品が商品として一般化したのは、アートフェアに出している私にも責任がある。その中でも唯一の抵抗が、批評誌(『有毒女子通信』)を出すことだった。これがギャラリーとしての矜持。



吉岡:松尾さんの発言の中で大事なことは、この10年ぐらいの世の中の流れって、使い捨てだということ。一見、お金が回っているように見えるけど、人を育てるとかあまり考えられていない。プロジェクトが終わったら決算されて、それで終了というのは危険。2003年のビエンナーレは、好きなことを許されてた部分がある。集客や費用対効果の面では失敗。でもああいうものって今はもう出来ない。大きなフェスティバルに若い作家さんが選定されたら喜ぶだろうけど、警戒しなければならない。ギャラリーは、知識を共有していく場を持続していく上で有効だと思う。そうした持続の試みとして『有毒女子通信』は絶対に未来の美術史家が参照する資料になります。



松尾:批評をするために、あえて紙を選んだのが『有毒女子通信』です。Facebookやtwitterは空白ですよね。批評誌の発行に並行して、今回の移転は、これだけの空間を持っておく必要性を感じなくなったということがあります。ただ、やめる気は全然なかったので、何かしら持っていたかった。



安河内:美術館とギャラリーって、どちらもホワイトキューブではあるけれど、決定的に違う点がひとつあると思うんです。それは、ギャラリーには人がいる、ということです。ギャラリーに行くと、ギャラリストの方だったり、時々は作家さんがいらして、そういう人たちと喋りながら作品を見ることになります。さらには、ギャラリストの方にお茶を出して頂くこともあれば、展覧会とは全く関係のない情報をもらったりもしますよね。ホワイトキューブって理念的には「どこでもない場所」として作られていると思うのだけど、ギャラリーには人がいることで「そこにしかない場所」が作られていると思うんです。人ってやっぱり千差万別ですし、人の存在感は大きいですから。



松尾:そこから出てくる特徴に、ギャラリストの個性があります。京都の場合は、現代美術系は個人店主の場合が多い。京都のギャラリーの名前は非常に情緒的なものが多いです。風や虹などの自然物や、voiceも作家の声を代弁するというような意味でアートに夢を託しているというのが表れていますね。



安河内:かつてあるギャラリストの方が「芸術って評価される物ではないと思うんですよ」と仰っていて、びっくりしたことがありました。だって、芸術はいつだって卓越性と結びつけられて考えられるのが、当たり前だと思っていたから。その言葉の意味は、よくよく考えると「長い目で付き合います」ということだと分かりました。「すぐには評価しませんよ。芸術が成就するためには時間がかかりますから」ということを仰っていたのではないかと。これは、ある作品に対して即断的にその良し悪しを批評しようとするスタンスとは、全く異なるものです。作品ではなくて、人を育てる。そのために敢えて批評や評価を慎む、というスタンスだと言い換えてもいいでしょう。



吉岡:批評は、みんなが好きな言葉ではない。ただ、わけのわからない土のついた大根が何なのかを言葉にしたいという純粋な欲求は広く存在している。マジョリティが受け入れるブランドとしての美術史に着地する批評だけではだめでしょう。50年後、100年後という射程での批評が少ないし、大きなセオリーの中に回収する批評と、驚きに突き動かされている批評の両方があるのが当たり前で、それが健全な状態。今の状況を述べると、目の前に出てきたものに対する驚きを言葉にするという動機が弱いし、それをするゆとりがない。すぐに「これ何ぼのものですか?」という評価のプレッシャーがかかるのは危険。そういう即時評価だけが「批評」として若い人にまで浸透していくのは怖い。既存の制度としての「美術」や「美術史」に回収するための評価、その評価の効率化という目標に向かってみんなが走っていくと、結局世界はどうなるかというと、北米圏の超富裕層がますます富え太っていくだけなのです。その結果自体は抑えがたいとしても、現場では抵抗勢力がある程度の力を持っているということが重要。





松尾:ギャラリーをやっていて、辛くなったのは、90年以降、2000年に入って顕著ですが、批評が減ったこと。アートの社会的な役割が多義的になりすぎて、誰も書いてくれなくなった。アーティストに目標を設定してあげることも難しくなった。批評があって、作品が売れてこそ、次の素材も買える。書き手が減っているのはどうしてでしょうか。ギャラリーが提供しているものが面白くないのか。




安河内:書き手自体は増えていると思います。正確な統計を取ったわけではありませんが、例えばFacebookとかtwitterといったSNSを見ていると、色んな人が色んな事を書いているわけで、量だけを見ると増えてはいるでしょう。でも、問題は、そこで書かれる文章がどこへ向かっているのか、ということですよね。アートの中で絶対的な価値基準、グランドセオリーがなくて、そこで個々人の言葉が浮遊しているというのが、いまの状況ではないでしょうか。もちろん、個々人の言葉は切実なものだし、個々人が自由に意見を発表できる場が増えたことは素敵なことに違いありません。でも、それが全体として見た時に、何を生んでいるのかは積極的に検討されて良いと思うんです。個人的には、グローバリズムとか、アーキテクチャーとか、個々人の言葉を生む環境なり制度に目を向けたり、あるいはなぜ個々人の言葉が浮遊しているのか、それがどこへ向かっているのか、といった、大局的な視点で書かれる批評が必要ではないかと思っています。それはプライベートな感想の発露とは違った、パブリックな何かを対象とした批評ということになると思います。




吉岡:メディア芸術に関するカンファレンスで、大澤真幸さんという社会学者が批評について言ったことで、その通りだと思ったのは、「批評を滅ぼしたのは批評の過剰だ」ということ。ソーシャルメディアもそうだけど、紙媒体でも、批評的な言葉を発表できる場は増え続けている。60年代、70年代はごく限られた者が批評行為を行っていた。今は、Facebookの「いいね」みたいなものが多い。小さなサークルの中で取り交わされる無関心な相互評価が、「いいね」。60年代の批評家たちはよくけんかしていたが、今はそんなことは起こらない。自分の好きなものはほめて、嫌いなものはブロックする。嫌いなものについて述べる動機がない。そういった自分の好きなものだけで自己完結している所に、たまに別のものが乱入してくると「炎上」が起こるだけで、昔の議論のように生産性がない。これは誰にとって都合がいい状況なのかと考えると、お金や情報を牛耳っている支配層に有利なのです。今、グローバルな世界の支配者たちは、昔の検閲のように目に見える形ではあまり規制せず、何でも自由に言ってください、と言う。好きなことを言う「場」は自由なんだけど、その場のアーキテクチャーは初めから与えられている。ブログで好きなこと言っても届かない。電子媒体より紙媒体の方がまし、というのは、紙の方がある種の「毒」があるから。ネットはうまく使えば有効だが、許された範囲内で好きなことを言うだけなら無力。用意されたボタンをクリックしているだけではダメで、OS的、システム的なものを如何にハックするかを考えないと。



松尾:某大学で、学生たちに、どんなメディアを使って自分の作品をアピールしたいかと聞いたら、Facebookで「いいね」されると頑張れる、というのがあってショックを受けた。



安河内:それは面白い。今っぽいというか。「いいね」の問題点は、持続力がないことです。1週間前に誰に「いいね」されたか、覚えている人なんて、いない。よほど好きな女の子から「いいね」されたというのなら、話は別ですけれど。それに対して、人から直接褒められたり、あるいは逆に嫌味を言われたりしたら、たぶん、何年かその言葉は残ると思うんです。「いいね」されたら、一瞬嬉しいし、承認欲求も満たされもするだろうけれど、でも、その一瞬の喜びがその人のアーティストとしてのキャリアとか、人生とかにどういう意味があるかは考えた方がいいと思います。もちろん、これはアーティストだけじゃなくて、僕たち自身にとっての問題でもありますけれど。



吉岡:Facebookだと「いいね」されたり、twitterだとフォロワーが増えたりすると嬉しいというのが、一番ダメなところ。嬉しさがクセになるので、それに対抗しないと。昔はギャラリーを情報収集のために周っていたが、ネットワーク社会になってから足を運ぶ人がなくなった。こういう状況の中で来ている人はかなりコア。アマゾンで本を買うと自分の欲しい本しか買えないというのと同じで、思いがけない出会いがないというのが今の状況。



松尾:ギャラリーに足を運ぶ人が減った。コレクターの方でギャラリーをはじめる方が増えているし、最近ギャラリーの存在に気付いた人は、ソーシャルメディアを使って頻繁に発言されているところに行くという状況。実際に現場に来ていただかないとわからないことがある。匂いや質感も含め全体を見て、美術を感じたと言えるのでは。



吉岡:誘惑ということを考えた。誘惑というのは、ここにいいものがあるからおいで、というのではなく、何だかワケのわからないものなのに魅かれること。大学の全学共通科目で「現代美術を考える」という講座を担当している。先日、具体美術の中で、嶋本昭三(13)さんの女拓という作品を紹介した。女性の裸体でとった拓本が最終目的ではなく、それらをつくるパフォーマンスを、写真家のベン・シモンズが撮っている。それを紹介した後、ある学生が、授業が終わった後に「あの画像をもらうことはできないでしょうか」と言ってきた。その子はまだ10代で、自分ではっきりは言わないけど、あの写真にすごく魅かれたんだと思う。今の世の中、ポルノグラフィカルなもので溢れているのに、その真っ黒に墨を塗った女の子たちの写真が、異様に魅力的に映ったんだと。一応、作品だし、1週間考えさせてと伝え、僕も1週間考えたのですが、次の週になって自分から「個人的に作品をもらうっていうのはよくない。でも僕の脳裏には鮮明に焼き付けているので、いいです。」って言いに来た。あの写真の誘惑する力ってすごいなって思いました。人間は最初そういうところで動かされるんだなって。僕が哲学書に魅かれはじめた時も、テキストを読んでワケの分からない誘惑を感じた。こんなこと言えたらカッコいいんじゃないかとか、もてるんじゃないかと。もてるわけないけど。(笑)



松尾:もてるじゃないですか。



吉岡:今はね(笑)。ギャラリーって誘惑の空間じゃないですか。ギャラリーは、語源的には、教会の入口前にある屋根のある空間。内部でも外部でもない、日本でいう縁側みたいな場所。美術館は入場料を払って内部に入り、終わると扉が閉まる。フェスティバルは祝祭だから、非日常空間。ギャラリーはそのどちらでもない。





安河内:吉岡先生の仰る「ギャラリーは誘惑の空間だ」という言葉を鑑賞者の立場から言い換えれば「誘惑される場所」になりますが、僕はさらにそれを「恋をしようとする場所」だと言い換えてみたいです。僕たちはいま、あるかないかわからないものに対して興味を持たないようになっているような気がします。あるかないかわからない、もやもやしたもの。それは物のような仕方で存在しているわけではないから、あるかないかをはっきりと判断出来ない。恋ってそういうものじゃないですか。僕があの子を本当に好きかどうかわからない、とか、あの子の気持ちが分からないとか、恋をしている時、人は多かれ少なかれ、割り切れない感情を抱えている。で、そうしながら、あるかないか分からないものに対して賭けに出ると思うんですよ。それと同じように、あるかないか分からない、もやもやしたものに触れる時の感じって、すごく人間的で、人生にとっても大切なものだという気がするんです。



松尾:キュレーターも元々、教会用語。ドネーションも、キリスト教の発想。画廊という呼び方や、マーケットを気にする気持ち悪さ。今回の移転は、キリスト教的な支配から抜け出せるきっかけかなと。美術界も、キュレーターやドネーションで成り立っているということに窮屈さを感じている。



吉岡:批評というのは、作品が良いか悪いかだけではなく、それが世界の中でどのように機能するのか、というような大きなことを言うことだと思う。松尾さんのグローバリゼーションの話で行くと、ボランティアとかドネーションは、お金を儲ける側ではなく出す側の話。ピュアな感じがするんだけど、とんでもないお金儲けと表裏一体。もし松尾さんが、それから離脱したいと思うなら、お金儲けのことをちゃんと考えるべき。お金について、プロテスタントのキリスト教ではひねりをかけていて、お金儲けの欲望を一回遠ざけてから、こつそり現世に戻すというトリックがある。それに対して日本の商いの哲学は、マテリアリスティックでよく出来ている。アートはお金とは別だって言う人がいるけど、アートとお金は同一線上にあって、お金がちゃんとまわっていい芸術が生まれる。



安河内:近江商人の「三方良し」みたいに、アーティストもギャラリーも儲かって、社会もよくなるっていう。



吉岡:そうすると、超富裕層は出てこないんだけど、かなり安定した持続可能なシステムが構築できる。今の状況下でそれを実現していくには、近江商人のままでは無理だけど、批評行為もお金の部分に向き合う必要がある。優れた商品開発とか、経営戦略ってそれら自体がすごくアーティスティックだなと思っていて、芸術行為と区別できない。



安河内:僕が気になっているのは、松尾さんが最初におしゃっていた、「展覧会を消費することをやってはいけない」という言葉。僕は京都芸術センターと京都市美術館で働いていたけれど、文化施設が展覧会やイベントを消費しないようにすれば、どういうあり方があり得るのか。これは個人的な課題として今後も考えていきたい。この問題は、文化施設はいかにして継続性や蓄積を作って行くのか、という問題とも関わっています。例えば美術館は定期的に作品を買って、収蔵している。そうした作品だけをもって、美術館の蓄積とか継続性と言っていいのかどうか。おそらくこれらの問題のヒントとなるのは、今日の話で出た批評のような、パブリックな何かに向けて行われる運動ではないか、という気がします。

あとさっきお話しした、もやもやしたもの、あるかないかわからないものについて、ちょっと付けたしておきたいのですが、もやもやしたものって、社会の中では基本的にリスクと捉えられるものだと思います。正確に言えば、ひょっとするとリスクになるかもしれないもの、ですね。だって、もやもやしているのだから、それがどういうものなのか、はっきりとは分からないわけだから。で、そういったものに対する関わり方には、リスクヘッジとリスクマネージメントのふたつがありえると思います。どちらも似た意味を持っていますが、対比させるのなら、リスクヘッジの方がリスクを回避するあり方で、リスクマネージメントの方がリスクを管理する、と分けられると思います。もやもやしたものの「もやもや」感をどうやって残すか、と考えると、やっぱりリスクマネージメントしないといけないと思うのです。先回りしてもやもやしたものが持つ「もやもや」感を消すのではなくて、もやもやしたものをもやもやしたまま受けとめる、と。VOICE GALLERY には、そうしたスタンスを感じます。個人的には、それを継続していただけたら、と思っています。



松尾:すごく勇気づけられました。







編集 山本麻友美(京都芸術センタープログラム・ディレクター)
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