美術

インスタレーションの実験場から、場の共有に向けて

2013.08.31

ヴォイスギャラリー移転ドキュメントⅡ 「大空間の大実験を振りかえって」

インスタレーションを中心に京都のアートシーンを支えてきたVOICE GALLERYが、今夏、二度目の移転を迎えました。今年7月に本格始動した京都文化芸術コア・ネットワークでは、モデルプロジェクトとして、ギャラリー移転のドキュメントを行います。第二弾の今回は、VOICE GALLERYの松尾惠さんの活動についての報告の後、美術家の小山田徹さんと演出家・振付家の坂本公成さんを招いての座談会が行われました。(2013年6月14日、MATSUO MEGUMI + VOICE GALLERY pfs/wにて) 記事編集:高嶋慈

「インスタレーション 目撃者として」松尾惠


松尾:まず、私のVOICE GALLERYでの活動と、この度ギャラリーを移転することになった経緯についてお話しします。VOICE GALLERYは元々、1986年の立ち上げから2008年までの約22年間、出町柳の清和テナントハウスという元倉庫で運営していました。今の南区の場所は2009年2月にオープンしたんですが、4年半ほどで再び移転することになりました。

                                             松尾恵


京都は貸しギャラリー文化が主体ですが、VOICE GALLERYも元々、貸しギャラリーとして出発しました。貸しギャラリーというのは、作家が一週間なり二週間なり会場費を払って、やりたい時にやりたいことを専念することで、自由な表現を行ってきた作家主体の空間です。

私が大学を卒業した1980年は、ちょうどインスタレーションという言葉が使われ始めた頃で、インスタレーションという果敢な実験が繰り返されている時代に美術の中で生きてきました。インスタレーションという言葉はなかなか直訳しにくく、当時は「仮設設定」、「空間設営」、「空間芸術」などと言っていました。つまり、一定期間その空間の中に存在するけど、展示期間が終わると解体してしまって物質としては残らない、絵画や彫刻のようにピースとして売らないという1つの表現方法です。元々インスタレーションとは「ソフトウェアをインストールする」の名詞形で、「設置」とか「装置」という意味なので、芸術作品自体が何がしかの思考を促す装置であったり、設定であるという意味合いが含まれています。インスタレーションのための空間の重要性は京都において強く感じていて、今の場所に移る時に、やはりこれだけの大空間で思いきったインスタレーションをどんどんやっていきたいという思いで、運営してきました。こけら落としの展示は、高橋匡太さんという映像と光の作家です。他にも身体表現を扱ったり、林剛さんの個展も行いました。林剛さんも京都では特筆すべき作家で、彼の考え方に非常に影響を受けました。展示が終わって搬出の時に、作品を全部解体した後、トラックに載せてゴミ捨て場に行かれたんです。これは1つの象徴的な出来事ですけど、「作品というのはその時存在する思考装置なんだ」という考え方です。

京都という町は、東京と並んで新しい芸術の中心地であり、海外の評価も高いと思います。ダムタイプや坂本公成さんのカンパニーのMonochrome Circus(モノクローム・サーカス)もそうですけど、京都でないと出来なかったことの1つに、非常に果敢な実験ができるということがあります。そしてその実験結果に対して、経済、批評やジャーナリズムにおもねずに生き続けることができて、作り手同士が評価し合うという、すごく濃密な関係があります。そうした作り手を惹きつける1つのメディアとして、ギャラリーと空間が必要だと思ってやってきました。

ただ、インスタレーションをやり続けるには、非常に気力も体力もいるし、お金も必要です。作品が結局解体してなくなるということは、経済やアートマーケットとなかなか直結しにくいし、今の時代にやり続けられる人は非常に限られてきます。全国各地のビエンナーレやトリエンナーレ、歴史的町並み保存と町づくりを絡めたプロジェクトなどに出口はないことはないんですが、その力を借りつつ、作家が実験を積み重ねていけるのかというと、やはりそうではない。色んな所で作っては壊し作っては壊し、いったいどこに蓄積をしていくのか。ここ2、3年はそうしたことを疑問に感じながらやってきました。ですから、やはり時代を読んで、打って出ないといけない。つまり、経済と関わることも含めて、新しい美術のあり方、あるいは本来の美術のあり方をいつも真剣に考えていかないといけないという思いで、ギャラリーを移転して次のステップに進むことにしました。

今の南区の場所は元工場なので、まさに実験室や生産工場という意味合いで、インスタレーションの空間として環境と中身が合致していました。次に移る場所は下京区の富野小路通高辻で、こことは違って、いわゆる職住共存地区です。前がお店で後ろが住居というケースが多く、仏具屋、塗物屋、印刷屋などのお店と、職人の町です。そういう所にギャラリーを持ち込んで、じわじわと町の中に滲み出るような仕事ができたらいいなと思っています。空間の規模は約三分の一になりますが、今の場所みたいに美術のシェルターとしての空間ではなくて、普通に町の中にギャラリーがあるという存在になりたいと思っています。移転の理由のもう一つは、京都市の事業であるHAPSもそうですが、若い人たちが町の中の混沌とともに悩みながら美術をやっていくことに、非常に大きな意義を常々感じていたからです。



座 談 会「空間は制度をつくるか? オルタナティブとパブリック」

         小山田徹(美術家)×坂本公成(演出家・振付家)

         司会・山本麻友美(京都芸術センター)



山本:今日の座談会では、これまで非常に先駆的な空間開発を行ってこられた美術家の小山田徹さんと、このVOICE GALLERYでパフォーマンス作品の公演をされた、Monochrome Circus主宰の坂本公成さんをお迎えしています。松尾さんからいただいたテーマが「空間は制度を作るか?」なので、最初に空間についてお伺いしようと思います。小山田さんも坂本さんも、場を作るのがすごく上手な方だと思っているので、まず小山田さんに、アートスケープの活動やその後のウィークエンドカフェについてお伺いできればと思います。


小山田:僕は、「美術家」だったり、時には大工さんやバーのマスターだったりと色んな立場で、人々と共有できる場と時間を作る活動をずっとやってきました。「美術」って便利な言葉で、「美術」という名目があると、本来は出来ない所でも屋台が出せたり、お酒が飲めたりとか、不思議な効果がある時は「美術家」の顔をしています。

松尾さんと最初に出会った84~85年頃は、ダムタイプがまだ「ダムタイプシアター」という名前で、その時は15、6人で、演劇をベースとしたパフォーマンスグループでした。最初から、一人で活動したことがあんまりないんです。松尾さんのVOICE GALLERYが昔あった清和テナントハウスにダムタイプもオフィスを構えて、17年間、一緒にそこの空間開発をしながら、人々が集まる空間を作り始めました。ダムタイプのメンバーの古橋悌二がHIVに感染したことをきっかけに、オフィスに集まる人々がエイズについて話をする中で、「僕らは直接HIVを治せないけど、その周辺で起こっている社会的な摩擦やズレをどう変えていくか」というところには関与できるんじゃないかという活動が盛んになっていきました。

その最初の大きな試みがアートスケープです。オフィスだと手狭なので、人々が集まる場所を外に作ろうかと考えていた時に、京都大学の東の吉田山の麓にあった二階建ての古い一軒家を提供してくださる方がいて、そこをアートスケープという名前にして、松尾さんも含めて5人の共同運営という形でスタートしました。そこに5、60人くらいの人間が出入りして、エイズに関わる様々な活動をするグループとして出発しました。ただ、そういう場を開いて活動がだんだん先鋭的になると、初めて来た人に対して、「あなた、ジェンダーについて考えたことがないの?」という無言の圧力ができてしまうんです。それで、別の入り口が必要なんじゃないかということで、ウィークエンドカフェというプロジェクトがスタートしました。これは京大の近くの地塩寮という学生寮がデッドスペースになっていたので、寮生たちと共同で二週間に一回、自主運営でオールナイトのカフェをしたんです。カフェなので、来るのは誰でも良くて、決してジェンダーについて詰問されることのない場(笑)。専門的な活動とは別に、自然と対話が生まれる場を持つことに獲得感があって、あっという間に2、30人が集まるカフェになりました。自主運営のカフェのスタイルというのは、日本でも初めてに近いかな。


坂本:僕はその頃、舞台の活動も既に始めてたんですけど、地塩寮の寮生で、運営メンバーに加わりました。


小山田:ウィークエンドカフェの運営はシンプルでした。値段はカンパ、食べ物は持ち込んでもらってシェアする。ホームパーティーの延長を皆でやってますという状態で営業してました。営業側の仕事がシンプルで誰でもできるので、何回か回を重ねるうちに、お客さんもカウンターの内側に入ってきて、全員がテキパキと仕事をするようになって、誰がお客さんかスタッフなのか分からなくなる。あの時に、垣根のない人々の集まりが自然とできる感じを獲得したと思います。


坂本:僕は、ウィークエンドカフェに集まる人の層を見ていて、アートスケープで先鋭的な運動をしていた人たち、美術作家、運動メンバーではないけどカフェに来た人、あとドラァグクイーンや地塩寮の学生とか、非常に色んな人たちが混ざっていることが奇跡的なことだなと感じていました。


小山田:僕はそういう風景を、ダムタイプの海外公演の時に見て非常にあこがれていた。いつか自分でもやってやろうと思っていて、ウィークエンドカフェは大きな転機だったと思います。その中でダムタイプも『S/N』という作品を作り、95年は古橋の死や阪神大震災など大きな変化があったんだけど、自分の心の痛みや悲しみも、そういう場が癒してくれる、もしくはそこに集まった人々で痛みを共有してもらうという体験をして、自分たちで場を獲得するというのは、これからの社会にとって非常に有効なのではという思いを強くしました。


山本:場所を作って運営していくにあたり、どういう人が集まってどうキープしていけるかって、意識的なものでなくても作る人の意思やモチベーションが大きく関係しているんでしょうね。特に小山田さんがやっておられる、移動式カフェである屋台は、そこに人が集まって話す仕掛けとして素敵な手法だなと思っています。屋台作りを思いついたきっかけはあるんですか?


小山田:まず、人々が普通に集まってしゃべって飲み食いしている風景には、幸福な時間が流れていると思うんです。例えば焚き火や屋台。そういうものは昔からずっとあったんだけど、失う時代がやってきている。それは法律的な問題や、隣近所との関係が非常にデリケートになったこともあるんだけど。でも街中に屋台があって人々が集う風景って残さないといけないなと思っていて。それでズルイ方法だけど、「美術」としてやると、形として見えるものに変わるので、場を作る手法として屋台を使っています。


山本:場づくりで言うと、坂本さんのカンパニーのMonochrome Circusは、劇場以外の場所で踊ったりとか、ダンスの枠にはまらないような場所をあえて選ばれていると思いますが、そのことについてお伺いできますか?


坂本:僕がMonochrome Circusを始めたのは90年代初めで、当時はまだ学生でした。元々は演劇をやっていて、演劇から少し逸脱するようなことができないかなと考えて、最初のうちはパフォーマンスめいたことをやっていたんですが、すぐ煮詰まってしまいました。その頃に出会ったのが、小山田さんのアートスケープの活動や、エイズポスタープロジェクトという活動で、同世代の友人の高嶺格や、きむらとしろうじんじんたちが中核メンバーだったので、僕も関わるようになり、二週間に一度はウィークエンドカフェに行っていました。小山田さんは、僕が最も尊敬できる活動をされている方だなと思っています。何か形に残るものを作品と呼ぶのではなくて、開かれた場を作って、人の出会いそのものをアートの活動として中核に据えて活動されている人がいるということに感銘を受け、後々の活動にすごく影響を受けました。

                                          坂本公成


アートスケープからウィークエンドカフェにいたる活動は、本当に僕の活動の原点の一部を成しています。ジェンダーの問題に関わっている方たちを見て、「自分は一体何の当事者になれるんだろう」と自分を問いただした時、自分はやっぱりダンサーだなというのが率直な答えでした。その時に、「ダンスに関わることだったら何でもやってやろう」という開き直りが生まれたんです。そうすると、作品の作り手でもありたいし、ダンサーが踊る場も作りたいし、学ぶ場も作りたい、といった欲求がごく自然に生まれてきました。その中でカンパニーを作ったり、今年で17年目になるダンスワークショップフェスティバル「京都の暑い夏」を立ち上げたりしました。端から見たら、僕自身が振付家なのかダンサーなのかプロデューサーなのか、得体の知れない人に見えるかもしれませんが、僕の中では一貫して「ダンサーの当事者」としてやるべきことをやっています。

空間の話になりますが、劇場を借りると高くて、若い時だとお金も知名度もないし、自分の作ったダンス作品を年に一回しか見せられない状態が何年も続いたので、発想を転換して、「収穫祭」と名づけたシリーズを展開しました。振付はしっかり作ればいい、その振付を持って街中に出て行って見せようと。ちょうどその頃、美術の分野でも屋外での展示とか、既存の空間を離れて展示を行う活動があったこともヒントになって、商店街や公民館に出かけていく活動を96年頃から始めました。

そこから発展して、「ダンスの出前」というシリーズも始めました。これは、交通費とご飯を用意してもらうという条件で、頼まれると国内でも海内でもどこでも行って踊り、パーティーを一緒にシェアするというもの。デビューはパリで2週間滞在しました。2週間色々な所を渡り歩いて、宴会なのかパフォーマンスなのか分からないような手法をだんだん開発していきました。招かれた側とホストが逆転したり、パフォーマーを呼んだ側がいつのまにかパフォーマーになっているような状況を開発したりして、楽しんでいました。


山本:「ダンスの出前をする」と聞いた時も衝撃を受けましたが、日本でも呼ばれたことはあるんですか?


坂本:パリから帰ってしばらくは海外に限られていたんですけど、劇場関係よりも美術関係や展覧会が面白がってくれました。ハブになってくれる所は海外でしたが、日本でもけっこう色んな所に行きましたね。仙台に一週間くらい滞在したり、個人宅もあったり。


山本:出前とか屋台は、移動できて、自分たちがやりたい所で場所を作ってやれるという利点があって、面白いシステムだなと思います。飲食が伴っているのも、コミュニケーションにはもってこいですし。


小山田:多分、屋台とか出前は食が絡むので、お客さん側も営業に参加している感覚を作りやすい。場の獲得感とか、場を共有していることに対しての積極性を意識できる。


小山田徹


坂本:出前もそうですね。劇場と違うのは、受身の観客がそこにいる訳ではなくて、「出前に来てください」と頼んだ時点で、実はその人はプロデューサーになっているんです。誰を招いてどうもてなそうか、場を作るということに、半分加担している。


小山田:今は買い物でも、店側にクレーマー対応とか色んなノウハウが出来て、「お客様」という存在を演じさせられるし、それを制度として店の側も帯びることが多い。でもそうではなくて、もっとリアルな関係を、場と関わるということを獲得し直すことが必要かなと思います。そういう意味では制度を崩したいし、新しい制度に変えたい。行政が公共というものを用意する時代はもう終わった。もともと公共って、自分の私的財産とか時間とか労働とかを供出し合って作ったものを呼んでたんだけど、今は税金を納めて公共というものが上から下りてくる感覚があります。


山本:公共の話が出たので、少しだけ京都芸術センターの話をさせていただくと、京都芸術センターは京都市の施設ですが、なるべく制度として固まらないように頑張っているつもりです。制作室を貸し出しているので、坂本さんとは家族みたいに毎日のように会うし、パブリックな場なんだけど若干プライベートでもあるというか、親密な関係を場所に残すようにしています。


坂本:大概の公共施設は、最初はユルくてもだんだん細則が出来てガチガチになっていくんだけど、芸術センターはそうならずにとても弾力的な活動をされているなと思います。


小山田:世界各国の色んな場所に色んな経緯でアートセンターが出来るんだけど、そこの運営がうまくいっているのはシステムの問題でなくて、人なんだね。システムの厳しさを緩和するクッションになる人々が、どういう形でうまく存在できるかということがやっぱり肝要だなと思います。人が続くというのは、財産だと思う。


山本:やっぱりシステムを作った時、継承されるものは限られるし、かなり意識しなければ大事なことが伝わらないということが、芸術センターを10年やってみて分かりました。Monochrome Circusは長く続けておられますが、秘訣はあるんですか?


坂本:長く続ける秘訣は…分からないですね。ただ、作品を作るためにカンパニーがあるんですけど、舞台芸術の劇場に特化した作品を作る活動だけでなく、ここのVOICE GALLERYでやらせていただいた『TROPE』という作品みたいに、劇場を離れて、ギャラリーの人などと組んで違うディシプリンでやれるような、そういうオルタナティブな活動をしてきたことで、とりあえずサバイバルできてきたと思います。


小山田:Monochrome Circusは、最初の方からずっと柔らかいよね。ウィークエンドカフェをやり始めた頃は、「色々頑張ろう」っていう感じだったけど。やっぱり、柔らかさがサバイバルの秘訣かな。


山本:小山田さんも、場所作りにおいて芯になるものはあると思うんですけど、その場所に柔軟に合わせることができるというのは、大きな可能性だなと思いました。


山本麻友美


小山田:色々活動していて、思考を深めてやっていくと、どんどん考え方が硬くなって、他者に寛容でなくなっていくんですよね。変えないといけないことはたくさんあるんだけど、その一つのことを原理主義的に整合性をもってやっていこうとすると、どうしても考え方が硬くなってしまう。人々が集まることを中心に持ってこようと思ったのは、ダムタイプが『S/N』という作品でエイズをテーマにしようとした時に、やっぱり社会を変えたかったんです。自分の中にも内在しているものも含めて、色んな差別的な視点を変えたかったんだけど、その「変える」ことを目的にして活動していくと、実はそのこと自体が暴力になっていく。決して「解決」という一つの答えがある訳じゃないことに気づくんです。じゃあ何が大事なのかと思ったら、そういう対話や思考をし続ける環境を持ち続けるのが大事なんじゃないかと思いました。色んな形で「対話」が可能な時間や空間、関係性、そういうものを持続的に持ち続けること、しかもそれを時代や自分の人生のタイミングに合わせて、無理なく変更しながら続けていけることが大事なんじゃないかと。そのために、今まで培ったスキルが生かせるんじゃないかと思って。

僕は家族ができてから、子供たちと同じ価値観を探すためには、子供たちと話せる言葉が大事かなと思っています。今ここでしゃべっている言葉では伝わらなくて、別の方法というかメディアが必要なんです。そういう形で柔らかい場が出来ていって、ギャラリーでも、例えばもっと街中の生活の場に混ざっていくことで、多様な柔らかさや姿勢を持てるんじゃないかと。京都芸術センターもそのためにあると思っています。色んな人々が色んなものを持ち寄って交換できる場所。


山本:芸術センターは、パブリックな場だけど、ある程度、何でも受け入れられる柔軟な素地を常に持っていなければいけないなと思っています。規則を作って杓子定規にやる方が本当は楽ですから。それをしないでオープンなままの状態でいるために必要なことは何か。みなさんのお話しにはヒントがたくさんあるように思います。今回、VOICE GALLERYが再び移転されると聞いて、私はけっこう衝撃を受けました。それは特に、ギャラリーって一つの場所に固定されたイメージがあるけれど、松尾さんは今回の移転を物理的な理由というより戦略的に選んでいるというところ。私たちにはもっとずっと自由なんだった、ということに気付かせてくれる驚きが、みなさんの活動には共通してあるように思います。



松尾:先ほどの制度の話で言うと、場を維持していくとどうしても制度的なことを作っていってしまって、つまらなくなる。先ほどの小山田さんの話にあった、「こうあらねばならない、こう変えていこう」という時に、逃げ込むシェルターがあるのはすごく大事だったんですけど、逃げ込んでるとできないことがあると分かってきました。なので、これからはお店屋さんになろうと思って。ただ私は、アートスケープの活動の中で、セクシャリティというのはゲイやレズビアンだけの問題だけではなくて、ヘテロセクシャルでも子供や家庭を持つかどうかも含めて、今の日本の制度にどう関わっていけるか、その時に美術というものが後ろ盾になってきたということを、小山田さんや坂本さんと共有してきたと思っています。私自身は庶民にはなれないということはよく分かっているんですが、庶民的で商業的な場所の中へ、先鋭的で政治的な美術をどれだけ持ち込んでいけるか、これからの課題だと思っています。


小山田:まあ、地域に溶け込むには時間もかかるからね。やっぱり、町のルールってゴミ出しとかPTAとか色々あるんだけど、毎回初めての経験で、プロではなくて毎回アマチュア。そのことが毎回とても新鮮で、自分がプロフェッショナルとしているスキルを翻訳してアマチュアの世界に持ち込んで通用した時に、初めて本当のスキルになるのではという気がしています。美術業界、ダンス業界のスキルは、業界で通用するスキルなんです。それが、自分にとってのアマチュアの世界で本当に活かせる時が、良いスキルになるのかなと。VOICE GALLERYが町中で商売をするというのは、そういう新しいスキルを開発していこうという、チャレンジだと思います。


坂本:そういう意味では、僕はけっこう悩むんですよ。例えばダンスとして先鋭化させていこうと思ったら、カンパニーのメンバーはやっぱりきれいで身体性を特化させていかないといけない。そういう価値観が自分の中に強くある一方で、オルタナティブな活動とか、誰の身体にとっても動きは存在していて、解きほぐすことでコミュニケーションが成り立つということを信じているんです。自分の中で、富士の裾野のように平たい部分と頂の方と、ものすごい乖離があって、自分はどっちにいきたいんだろうって悩んでいます。


小山田:先鋭的な身体表現と、元々ゼロ度の身体表現、両方ともピュアだと思うんだけど、どこかで結びつくんじゃないかな。例えば、子供たちがちょっとした動きをした時には、勝てない。でも、多分それは、日々身体を訓練している人が「見れる」ということが大事なんじゃないかな。子供同士ではその身体性を評価しえないし、日常の中に埋没してしまうんだけど、それを「見れる」人がいるということが非常に大事なのではと思います。


坂本:実際、「見る」ということをパフォーマンス化したこともあります。「混浴温泉世界」という現代美術展では、商店街にダンサーを埋め込んで、お客さんに地図を渡して「ダンサーを探しましょう」ということをやったんです。そうすると、「確実に見よう」という目で見ると、商店街にいる人が全員ダンサーに見えてくる。しかも地図を持って観客になりすましたダンサーまで仕込んだり、あからさまに踊るんじゃなくて完全に紛れ込んでいて、商店街のお店の人にも指示を仕込んだので、どの人も疑わしくてしょうがない。眼差しが機能しさえすれば、ダンスって成立するんだなと思いました。もしかしたら、美術を見る眼差しが成立しさえすれば、どこでもギャラリーになっていくこともあると思います。



■2013年6月14日 MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/wにて


編集:高嶋慈

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