美術

「身体からの『想像・創造』力」

2013.07.13

潘逸舟(アーティスト)

「omnibus Sibayo Gallery」にて、6月30日より展示されている、潘逸舟「ぬりえ」展、2012年に芸術センターで展示された「海の形」以来二度目の京都での展示を催す事となった潘に、今回の展示作品について、さらには表現者として「今の社会をどう見るか」について話を伺った。

—今回の展示作品、「ぬりえ」について


この展覧会の前に新宿のゴールデン街で展示をしていて、その時は「東京にある牡丹を描く」という作品だったのですけど、それは、“牡丹”という、中国では伝統画でもたくさん描かれていたり、結婚式等でもその柄のデザインのモノを着たりする、国を象徴する様な華の存在を、東京にある“牡丹”をリアルに描くというコンセプトのもとに、ゴールデン街の「グリゼット」という場所にて「牡丹のある風景を描く」と題した展覧会をしました。その時に、中国にある牡丹柄の布を両親から送ってもらったのです。そして、その布を見て色々と考えていたら、布のプリントは表だけにしてあり、裏には何も描かれていない無地の状態、その無地の状態で表の柄が透けて見えるのがとても良くて、この裏に色を塗って行けば絵になるんじゃないかというのが、「ぬりえ」の発想です。そしてそれをもう少し発展させ、京都にて展示をしたのが、この「ぬりえ」です。


—「ぬりえ」に使われている素材(メディア)、“血液”について


ぬりえのシリーズを制作していったときに、絵の具だけではなく違う素材も使ってみようと思ったのです。そんななか、そもそもアイデンティティという問題は、生きるということとどう関係しているのか、ということを「ぬりえ」のなかでやってみようと。それで血液を布に塗り、それが乾いたときの色と同じ色の布を探しに行くという作品を制作しました。個人の存在を体内で支えているモノと、外側にある社会的に存在している大量生産されたモノ。この場合は、血液と赤茶色の布ですが、この2つのモノがどのように関係し合っているのかに興味があります。2つはつねに同時に生きているのではないだろうかと。また背中合わせでお互いを見ることがないような距離にあると感じたのです。「ぬりえ」という作品は「アイデンティティって何の意味を持つのか?」という問いかけでもあるし、その問いそのものを疑ってみるという試みでもあると感じています。血液が乾いた色と同じ色の生地は布屋さんで売っているのか?またその同じ色の布を見つける行為自体が作品のプロセスとして重要な部分ですが、そんなことをしても何の意味もないのではないかなと。実は現代の個人と共同体の関係というか、アイデンティティと言われるものって触ったらすぐに崩れてしまうようなとてももろいモノであって、突然意味をなさなくなる。でもそこに意味を求めて生きていくのって何だろう、という問いかけも「ぬりえ」という作品のなかに含まれているのです。また「ぬりえ」という作品は、身体の内側と外側をつなげるという作品でもあるのですが、その2つの「間」にはつねに皮膚だったり脂肪だったり、目や鼻や口などがある。僕が作品をつくるという行為自体もその2つのモノの「間」に存在しているのです。


2012年の京都芸術センターでの展示「海の形」から今回の「ぬりえ」への移行について。



「海の形」2012年 映像5分 京都芸術センターでの展示作品


芸術センターでの「海の形」の展示の時点では今回のイメージは無かったです。少し長くなりますが、僕自身は高校の時からパフォーマンスをメインに作品をつくっていたんですが、親父がハンディーカメラを買って来たばっかりに、映像作品をつくってみたりと色々あり、ここ2〜3年は白黒の映像作品が多かったんです。それと今回の作品「ぬりえ」とは“色”のと言う部分では違うのか知れませんが、ずっと尖閣諸島が沈んだりとか、服が戻って来たりとかの「海の形」と言う作品で白黒での表現をし、海という抽象的な存在と自分が向き合う、それはその、海には住めないと言う条件の中で、どう向き合うかっていう作品で、僕の中ではある意味で社会と向き合っているというか…その背中側には陸があって、私たちはそこで生活しているんだけど、わざとそこには向いていないってだけで、そして白黒ってのは単純に色を付けるってことに意味が出てきてしまうし、白黒の方がキレイだなと。そして「海の形」の後も「呼吸」っていう作品シリーズをワンダーサイトで発表したりして、その頃に「色って何なんだろう」って疑問が生まれて、じゃあどうやって色と向き合うのかってのは、テーマとしてやっていて出てきたんです。それが今回の作品に繋がっているといえば繋がっているのかと。つまりプリントされた布の裏側は何もなく、色がそもそも無いはずなんだけど、少し表側が透けて見えてて、そこにぬりえをしたいなと、そんな感じで発展していったのと、そして先ほど言い忘れたんですけど、“反対側”とか“裏表”とかは、もう一つ前の2009年につくった、「反対側」という作品があって、それはナイフを逆に持って自分のお腹を刺すと言う作品で、それは完全にイラク戦争を、遠い日本って場所から見てるって意味で「反対側」なんです。それはテレビからリアルタイムでニュースとして流れて来て、そのテレビとそれを見ている自分との距離は近い場所なんだけど、ニュースの内容は遠く離れた場所で起きている戦争という遠い場所でもあって、リアルタイムな情報って、今何故その情報が流れているのかって言う意味から解釈をしなければならなく、そういう意味で「反対側」って作品はあります。つまり意識の中では常に見えない背中の部分とかにも意識はあって、今回の「ぬりえ」には、色って言う意味と反対側って意味では繋がってはいます。



「呼吸」2012年 ©Tokyo Wonder Site Photo:Shigeo MUTO



「反対側」2009年 写真8点1組


—表現メディア(映像表現、自身の身体)について


もう少し映像について話させてもらうと、これは結構僕の中で重要で、何故映像というメディアを表現手法として選んだかというと、映像ってのはその場面場面を切り取るもので、「海の形」も「呼吸」もなんですが、自分がその風景の中でパフォーマンスをしていて、映像というフレームで切り取られているんですよ。それは風景の中にある身体、切り取られた中にある身体、映像自体を僕は風景と言う言葉に置き換えても良いと思っていて、「海の形」を発展させた作品が「呼吸」であり、自分と同じ重さの石をお腹に載せて呼吸をし、カメラで呼吸によって動いている石を撮影した。それを風景として捉えるということはどういう事なのか。それを大阪から上海への東シナ海を通って行く時の甲板で揺れている石と自分で揺らしている石とはどう違うのか、全て切り取られた中で、そこには見えないけど身体があったり、そこに見えないけど部分として身体という風景があったりと、そこでの風景というキーワードにもずっと興味は持っていた。見るという事が絶えず切り取られているという事で、切り取られるという行為の中には、それが故に物語が産まれたり、あるいは見ている人が勝手に物語を生成したりすることもあると思う、その辺りが映像をやっていて興味深かった点です。切り取られているということは、そこに主観が入り、編集がされている、もちろん自分で切り取っているんだけど、僕の映像も作品のほとんどは固定が多く、自分でカメラを持つのではなく、カメラを固定してそのカメラの前に自分が行く…(笑)もちろんその映像ってモノに直接的では無いですけど、そこに身体と言う風景をどう見るかという興味深さが、何故切り取られているのかみたいなモノに興味がありますね。


—潘逸舟という「表現者」として、今の社会をどう見るか。


イヤでも見てしまう事の方が多いけど…それを常に作品を通して見てるというか考えてるというか、社会の中で…考えるとはいったいなんなのだろうか、と思うときがあります。またなぜ考えるのか。何かをつくるという行為は何かわからないモノを考えるためにあるのかもしれません。脳だけでなく、体のいろんな部分が何かを考えていると思います。だから自分の作品もあっちに行ったり、こっちに行ったりするのですが(笑)。いつも空港で出国や入国の手続きをするときに備え付けのカメラで写真を撮られたり、指紋を記録されたりします。「カメラに顔を向けて下さい」と言われたとき、いつもどんな顔をしたらいいのかなと思ったりします。目を閉じてみたり、笑ってみたり、横を向いたりしたりもします。もちろんやり直されたりもします。なぜこのポーズをするのかはよくわかりませんが、脊髄反射的なものかもしれません。また、この撮られた写真は自分が見たり、所有したりすることは一生ないんだろうなと思います。出入国審査で写真が撮られることについて、今後見ることができない自分自身の写真にどんなポーズをするのかについて、考えるのはとても興味深いです。毎回毎回パフォーマンスをしているようなものです(笑)。

「表現者」として社会をどう見ているのか。それはここでどうやって暮らしていきたいかという質問に置き換えてもいいのかもしれません。その生活のなかから体がいろんなことについて考えていて、そこから何かいろいろと作品に広げていけたらなと思います。



■取材:2013年6月30日(日) Cafe Sibayoにて

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