2021.03.29

LUCA_column 1 「私的星の巡礼 カミーノ・デ・サンティアゴ」



星に心惹かれ導かれる日々が始まったのは、今思い返すとこの旅からだった。
2015年の10月。スペインはバルセロナに飛び、そこから寝台列車に乗ってガリシア地方にあるサリアという小さな町を目指した。
目的はカミーノ・デ・サンティアゴ。
聖ヤコブ(スペイン語ではサンティアゴ)の遺骸があるとされるサンティアゴ・デ・コンポステーラを終着点に何日も歩く巡礼の旅だ。
全工程を歩けば約800kmの長さで、時間でいうと1ヶ月から1ヶ月半はかかる。
今回は時間の都合がつかず、先ずはと巡礼証をもらえる最短コース、到着地まで約110kmの出発地サリアを選んだ。
列車は霧がかかる灰色の早朝に着いた。駅はとても小さくて、町は歩くと30分もしないで全貌が把握できるほどこじんまりとしていた。石を積んで作られた小さな教会や、家々がきゅっと肩を寄せ合って建っている。




メインストリートと思われる道の曲がり角に、巡礼者向けのお店があった。長旅用のブーツや地図、巡礼者全員が目印に持つシンボルの帆立貝が売られている。
私たちはここで町と町の間の距離だけを示した簡易な地図、帆立貝を調達し、まずはサンタ・マリナ教会を探した。
サンタ・マリナ教会で巡礼手帳をもらい、この旅最初のミサに立ち会った。

私たちは、あえてwifiを持たずにアナログに石や道や木に記された黄色い矢印を探し辿ることと、簡易地図、そして人だけを頼りにサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指すと決めていた。
1000年以上前からたくさんの人々が祈りを携え歩いた道を、その当時にできるだけ近い方法で歩くのかと過去の時間に思いを馳せていると、サリアの外へと巡礼路が続く坂道を上がりきる頃には気持ちがすっかり高揚していた。
暫くは森の中に道が続いた。




寝袋をぶら下げた大きなバックパックを背負い、ペースも速く楽しそうに歩いて行くお兄さんや、軽装備で談笑しつつ朗らかに歩くお爺さんやお婆さんたちのグループ。




霧の中ちらほらと他の巡礼者たちが現れ、湿った空気の粒子に、ある言葉が運ばれ聞こえてきた。
“Buen Camino” 佳い巡礼を。
すれ違いざまに穏やかな笑顔とともに私にも掛けられたこの言葉は、言語も人種も宗教も超えて、ひと時の間その誰かと繋がれる素敵な合言葉としてこの先の旅中ずっと側にあることとなる。




ここで少し、なぜ私が巡礼の旅をしようと思ったのかの理由を書きたい。たいして大きな理由でもないのだけれど。一応。
時間を遡って、小学生の時に戻る。
夕ご飯時につけたテレビに、スペインの高校生たちがバックパックを背負い、森の中や、丘の上を昼夜と歩く姿をみた。
夜は広い建物に雑魚寝し、途中足を痛めてもう家に帰りたいと涙を流すある生徒を励まし続け、最後まで一緒に歩き続けた先生やクラスメイトたち。
大きな大聖堂に着いた時の皆の達成感は図り知れなくて、最初よりも少し逞しくなった姿に、ご飯そっちのけで吸い込まれていった。
今思うと雑魚寝をしていたそこはアルベルゲで、昼夜のその夜は早朝で、みんなが一生懸命に歩いたその道は巡礼路だった。




二十歳になってある日インターネットで調べ物をしていたら見かけたカミーノ・デ・サンティアゴという言葉を口に出して読んだ瞬間、その夜小学生だった小さな私の記憶がふわりと蘇ってきたのだった。
懐かしさと、不思議な胸の高鳴りは止まらず、雑誌や書籍でも掘り下げていった。




巡礼というくらいだからとても宗教的な旅だ。
見えない世界の存在を心の奥から認める私だけれど、信念や約束、死後の世界の在り方を一つの宗教に選び決める必要はないと思っている。
だけど、今も昔も思えば祈りは人間の大きな支えだ。
宗教は世界に大きく影響を与えていることは明瞭であって、とりわけクリスチャニティには興味があった。

そんなある日、航空会社から航空券のセールの知らせが届く。
バルセロナと関空の往復で4万円という。
これは時機が来たと即決した。

巡礼路に点在する巡礼宿“アルベルゲ”は、約6~15ユーロと安く泊まれるので人気が高い。チェックインは早い者順ということで毎日14時頃には次の宿を確保できるよう計算してアルベルゲを出発した。
毎朝8時前には出た。
スペインの朝の到着は遅く、ここから1時間半ほどは夜のように暗かった。
月も星も美しく輝いていた。
だけど夜の輝きとは少し違うから面白い。
藍色の空は、朝の気配とこれから始まる新しい一日への期待に満ちているかのようだった。
そうして夜が明けると、空まで開けた場所を探して腕を目一杯に広げ、朝陽を抱きしめるのが日課になった。




”Buen Camino“ と声がけをして歩くうちに、段々と他の巡礼者たちと顔見知りになっていった。

中でも韓国人の老夫婦やアメリカ人のお医者さんと仲良くなり、日々の進み具合は多少前後しつつも最後まで仲間のような感覚で歩いた。
韓国人の老夫婦とはある町のアルベルゲで出会う。
私たちはお金をあまり持っていなかったから、毎食自炊していた。隣で食べていた彼らはある日、私たちの食事内容のあまりの寂しさに見兼ねて、自分たちの食事を分けてくれた。(たくさん歩いた一日の終わりに食べたレタスに巻かれた久しぶりのお肉は格別だった!!)
そこから道や宿で会う度、少しの韓国語と英語、そしてたくさんの笑顔、この3つの言語で会話をするようになった。




出会いは数えきれないほどある。
大きな川を渡ってポルトマリンという町に着いた時のこと。
橋を渡り切った先に作られた石の門にはまるで当時の衛兵が立ち、小さなその王国を守っているようだった。
長い橋の上で川からの風を頬に、先に見える門と、微かに見える教会の頭に目を細めていると、時空を超えて当時の旅人と自分が重なった気がした。




ポルトマリンはとても小さな町で、15分程度で一周できた記憶がある。中心に教会を囲むようにして家々やお店が並んでいた。
いつも通り先ずは、手頃な値段のアルベルゲをみつけて荷物をおく。シャワーや洗濯を済ませてから、まだ暖かく穏やかな日の下町へ出た。
太陽に照らされ輝く友人の洗いたての髪の毛の美しいこと。
あまりに気持ちの良い昼下がりなので小さなカフェのテラスに座り、少しずつスムーズになりつつもまだたどたどしいスペイン語でカフェラテを注文した。
目の前にはアイボリー色の石のブロックを積んで建てられた小さな町の教会。
しばらく眺めた。
道中様々な教会を訪れたきた私は、生意気にもなんとも平凡な教会だなんて心の中で呟いていた。そんな私にカフェのお兄さんが話しかけてきた。
「この教会は俺たちの宝物なんだよ。この石のブロック一つ一つに俺たちの名前が刻まれている。みんなで建てたんだ。将来子供が産まれたらその子たちの名前だってここに記される。」
何も知らないで失礼なことを思っちゃった。と私は心のなかでお兄さんと教会に謝った。
少しのスペイン語と少しの英語とGoogle翻訳を使って、私たちは日が暮れるまで話をした。
お兄さんは生まれてこの方この町から出たことがなく、自分の愛する故郷で遠く日本から来た私たちと、出会えた奇跡に感動してくれた。
目的地までの道中、怪我や何か困ったことがあったら、助けに行くからいつでも連絡してくれと帰り際に連絡先をくれた。
その頃にはもうすっかり日は暮れ、夜空には、この小さな町の小さなカフェで紡がれた小さな優しい時間を喜ぶように、星々が何とも幸せそうに輝いていた。




国道沿い、森、牧草地、いくつもの丘を越えて無事にサンティアゴ・デ・コンポステーラに到着する。
夕陽で真っ赤に染まった街のまぶしさに目が眩んだのをよく覚えている。

お金が足りずアルベルゲに泊まれないとわかった日、町外れで途方に暮れて座り込んだ石塀の持主が家に泊めてくれたこと。「幸せのお裾分け」と夕食に招待してくれた紳士。

この1週間、書ききれないほどの物語がうまれた。
今回何を伝えたかったというと、人々との出会いが地図となり私達を導くコンパスになったこと。
人との出会いはまるで地上に描かれた星座のようだ。
無数に点在する星々が縁のもと繋がり、一つの美しい星座を描く。そして幾つものパターンをもってこの広い銀河で輝く。

砂漠の民ベルベル族や、アークトゥルスの星を頼りに大海原を航海したポリネシア人たち。夜空に浮かびあがる地図に行先を確かめた。

こんなにも先の見えない時代だからこそ、私たち地上の星も、夜空の星々も、より一層にその存在を輝かせる。
自分たちの出す光で地図を作り、道は開かれ、歩んでいくのではないだろうか。

カミーノでの時間を想うとそんな気がしてならない。

音楽を始めて7年の時が経とうとしている。
天地の星たちに導かれ、私は日々歌っているように思う。





LUCA
1994年カリフォルニア州バークレー生まれ。シンガーソングライター。
2015年にファースアルバムとして「So I began」を発表。同時に自身のオリジナル楽曲制作とは別に日本各地に伝わる民謡を唄い繋ぐことを始める。最新作は写真家・Miho Kajiokaの写真を迎えた民謡集「摘んだ花束 小束になして」。
ソロ名義の活動の他、坂本龍一、There is a fox、haruka nakamura、似非animal、 ダンサー苳英里香らとコラボレーションも重ねる。
ナレーションや翻訳など音楽の垣根を越えて活動は多岐に渡り、カリフォルニア、デンマーク、パリ、東京を経て、現在は京都を拠点に活動中。

Profile photo by Yokoe Misaki
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