2013年3月1日(金)から3月20日(水)までの18日間、gallery nearにて、佐野優作 展「鈍遊び -なまくらあそび-」を開催いたします。
中国の古代思想で、四方位を司る四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)など、日本の美術史にも登場するモチーフをはじめ、日本の時節になぞらえた表現、また、日本的な風景を「金色」のみを用いて表現する佐野は、昨年の春に京都造形芸術大学を卒業、在学中から様々なグループ展に出展し、その存在感を存分に発揮して参りました。「金」という「色」としては極めて個性が強く、また、素材として扱いが困難な「金箔」などを用い、それらを作品に昇華する類い稀なる感性と、職人的な技術をもって唯一無二の世界観を構築し、作家としてのオリジナリティを追求しております。
佐野は幼少時によく遊んだ折り紙の中からも、常に金色を使用し遊んでいたと言います。佐野のみならず、人は皆、折り紙の中にある金色に特別感を覚えた記憶があるのではないでしょうか?物心ついた頃より私達は、金色に興味を抱き「金」という魅惑の色が放つ魔力に、心を奪われてきました。 金色を好む人には野心家が多いとも言われており、古来より装飾に多用され、富と権力を象徴する色として、時代を超えて魅了しつづけてきた色ならではの逸話と言えるでしょう。
佐野は、人間が本能的に「金」に感じてきた物質的な魔力を分析し、金箔や鍍金(めっき)、截金(きりかね)、塗料など、その時代背景により再現されてきた「金」における歴史的文脈を読み取り、それぞれの素材に特化した形で作品に施し、現代的に表現しようとします。大作「卍印門」(2012)では、先史時代から力の循環「太陽」を表す図形「卍(まんじ)」を、古代のインカやコロンビア、エジプトなどの文明において「太陽」と考えられてきた「金」 との意味的繋がりを組み合わせ、自身の解釈「魔を通さず加護のみを通す門」として表現しております。また、2種類の金箔を用いて作られた市松模様の背景に、金粉や金色の顔料墨でクラゲを描いた作品「クラゲの考え。」(2012)では「透明=金色」という独自の解釈を現代的に表現しております。日本画では光を表現するために金箔を施すことがありますが、光だけではなく空白を表現するためにも金箔を用いているのでは?という佐野独自の解釈から、「空白にある光は透明と認識される。」空白の空間に透明のクラゲが漂っている様を、金の背景に金のクラゲを描くことで表現しております。
本展は、2012年に制作された近作を中心に、新作の小作品を交え構成されます。本展タイトル「鈍遊び-なまくら遊び-」とは、その美しさから富と権力を支えた「黄金」と、武力によって富と権力を支えた「鉄」という対極にあった2つの金属の関係性に注目し、「斬れない刀」を意味する「鈍(なまくら)」 を、武器としての鉄ではなく装飾品である「錺(かざり)」と捉え、その「鈍=錺」が放つ美しさを「黄金」の道筋として作品に昇華しようとするものです。「黄金ではないが黄金へ歩み寄る表現」「言葉が足りぬからこそ別の言葉で補う美意識」という本展における佐野の概念は、自身の言葉だけでは表現しきれない思いを作品で表現する、いわば現代における作家達の表現活動そのものとも言えるのではないでしょうか。
日本のみならず、海外においても「金」という色は、目の前にするだけで、誰しもが高級感、多幸感を覚えます。不況と煽り、不安をかきたて続ける世相が生み出す、閉塞感に満ちた現代において「金」がもたらす、誰しもが本能的に感じる幸福感は、今を生きる我々にとって必要な感情であり、最も必要な 「色」なのではないでしょうか。
本展をぜひ、ご高覧くださいますよう、何卒よろしくお願いいたします。
gallery near 延近 謙
ARTIST STATEMENT
金色のみで絵を描いています。 古くから人間が黄金に対し本能的に感じてきた魔力を分析し、金箔や鍍金、截金、塗料などの時代を経て再現されてきた「金」の色からそれぞれに 特化した文脈を読み取り一つの形に施し表現することが目的です。
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「黄金」と「鉄」
この二つの金属は古くから対極にあった存在です。
柔らかく、武器としては使えないがその美しさから富と権力を支えた「黄金」。
硬く、加工が難しいが武器に適しており武力によって富と権力を支えた「鉄」。
どちらもより多くを手にした国がその土地を支配してきた歴史があります。
しかし、もちろん武器として使われない「鉄」もまた存在します。
「鈍 ( なまくら )」と呼ばれ、「斬れない刀」の意味としてマイナスのイメージを持った言葉ですが、僕は「鉄」が「黄金」に近づく可能性として、今この言葉を見ています。
「武器としての鉄に非ず」は「錺 ( かざり )」であると考えた時、僕たちが「飾られる日本刀」に感じる装飾品としての美しさが、ただそのままでも美しくある「黄金」の装飾的な歴史世界へ、機能性が主であった「鉄」が歩み寄った形として感じ考える事が出来るのではないでしょうか?
「黄金」ではないが「黄金」へ歩み寄る表現 「言葉が足りぬからこそ別の言葉で補う美意識」
僕は今回「黄金」の美しさに隠れた「言葉」を「黄金」以外の物も用いて形にする自らの表現をこれらの文脈に重ね合わせ、今後の期待とほんの少しの傲慢さを込めまして「 鈍遊び – なまくらあそび – 」と呼んでみる事にしました。