世界考古学会議第8回京都大会WAC-8:8月28日(日)〜9月2日(金)のサテライト会場としての展覧会。
および、その前後に開催する関連展(トーク等あり。トーク詳細は会場HPにて後日お知らせします)。
京都市中の足もとを2メートル掘ると縄文時代の地層があり、そこから地表まで、人類は、暮らしや戦いなどさまざま欲望の跡を堆積させてきたといえます。私たちは、その上に立ち、これからも千年、万年先に向けて営々と跡を遺していくのでしょうか。現代美術もその行為のひとつであり、いま、方々にある種々の欲望との関わりであると思います。世界じゅうの土中の壮大な時間を考えること、芸術家が個々に遠い精神世界からもたらすものに感応すること、その往還に新たな回路を見いだす試みが、本展です。世界考古学会議京都大会における発表のひとつとして、学術展示・発表「芸術と考古学」の枠を少し出て、美術家の思考を提示します。
横谷奈歩は、これまで、古代遺跡や戦跡、個人の暮らしの跡などを訪ね、無言の歴史や無名に生きた人々の過去を追ってきました。「ある場所を探り、時間の層に耳を傾けることは、世界の表皮に触れることである。(横谷奈歩」。また、横谷は、生について「世界の表層の、ほんの一部の人間の痕跡と形跡を、剥ぎ取っているに過ぎない。」、死と記憶の再生については、「すべての記憶は剥離され、転換され、忘却され、そして繰り返される。」と述べています。本展では、偶然に、あるいは作家自身の強い意志に基づいて訪れた場所の証拠品(遺物や記録写真)と、自身の直感の間を行き来しながら、架空の形跡や痕跡の模型へと発展させ、再撮した写真を中心に構成します。
一方、メディアアートの作家softpad(粟津一郎・上芝智裕・奥村輝康・竹内 創・泊 博雅・外山 央・南 琢也)は、視覚や聴覚といった、メディアとしての身体について連続性や拡張を探り、感覚に深度を与えるという意味において、コンピュータプログラミングを緻密な手仕事のひとつと捉えます。企画当初本展のキーワードとした縄文文化には、文字による記録がありません。逆説的に、このたびのsoftpadの展示は、文字をテーマとしたインスタレーションです。「文字は、支持体としての物質(土・石・木・獣皮・紙・金属、等)に刻印する・印刷することにより記録・伝達を可能としてきた。それゆえ文字とはそもそも離散的に処理され扱われてきた人工物であるといえる。本作は、自然環境音から抽出した変化のパラメータを用いて書体のフォルムを連続的に変化・生成するジェネレーティブ書体の実験である。(softpad)」。
以上、本展両作家の考察=作品は、1万年前と1万年先の境界である<今>ここに留めなければ消滅していく記憶そのものといえます。今日の出来事が明日には考古資料となるように、記憶とは、そもそも忘却の彼方に埋もれる欲望を、その実行者に委ねて断片を剥ぎ取とり、ともかくも前に進む世界に向かってメッセージを再構成することなのかもしれません。剥離と忘却の層が世界を進めるのだとすれば、芸術は、記憶の美しいつくり方といってもよいのかもしれません。