児玉画廊|京都では10月18日(土)より11月22日(土)まで、竹村文宏個展「Factory」を下記の通り開催する運びとなりました。2012年の初個展「Flight」(2012年、児玉画廊|京都)、2013年の個展「真空」(児玉画廊|東京)に続き、今回は竹村にとって三度目の個展となります。その間ART STAGE SINGAPORE(2013年、2014年)、アートフェア東京(2014年)、BAZAAR ART JAKARTA(2014年)と、国内外のアートフェアでも積極的に紹介してきました。
竹村は、アクリル絵具を絞り出し細い糸状に乾燥させたものを組み合わせて構造体を形成し、キャンバス上に「立体的な絵」を構築していくという手法によって作品を制作しています。芯材として針金や糸などを利用することはなく、純にアクリル絵具だけを使用しており、実際の作品を間近で見るとその超絶的テクニックには驚かされるものがあります。その立体的な造形について、本質は全く異なるため誤解を招く恐れもありますが敢えて例えるならばプラモデルやジオラマ、あるいはケーキアイシングをイメージすると、まずその作品の特徴を理解する上では役立つかもしれません。ビニール袋に絵具を詰め、針穴を空けて絞り出す、という至極単純な方法で、直接的にキャンバスから山を盛り上げるように絵具を堆積させたり、鉄筋構造を模倣してタワーやビル、観覧車のような細やかなものまで作成したりと、様々な造形物がキャンバスからこちらに向けて聳えているのです。しかし、竹村にとって、絵具を絞り出した糸状の線はペンで引くのと同義の「線描」であり、作品はあくまで「絵画」であるとする認識に揺るぎはありません。では、なぜ竹村はこの物質的に「線を描く」手法を、画法の一つの在り方として固持するのでしょうか。
まず竹村の最も初期の作品であるドローイング作品から考察していくことでそのコンセプトを追うことができます。インクによるドローイング作品では、街並を俯瞰視線から真っすぐ見下ろす構図で、丁寧な線を綴った繊細な表現がなされています。なぜ俯瞰視線であるのか、という点については次のような意図があるからです。絵画の一般的な認識とは遠近法や陰影法などの絵画イリュージョンをもって平面の中に空間「らしさ」を表現することと言えますが、それでは物陰に隠れて見えない部分は、見えない以上描きようがありません。立体交差する構造、例えば道路とその上を高速道路や陸橋が交わる様子を想像すると分かり易いでしょう。通常、この道の重なりを描く場合パースや陰影を駆使して重層するように「見せかけ」たり、二本の道を十文字のようにクロスさせて「それらしく」描くことになります。実際にはこの二本の道の重なりの裏側には、両者を隔てている空間が厳然と存在するにも関わらず、そのような描き方ではその空間について画家は表現することを放棄することになり、そして、そこが如何なる空間になっているかは残念ながら鑑賞者の想像力に委ねる他ありません。それは竹村の画家としての矜持に関わることであり、決してないがしろにして良い問題ではありませんでした。そこで苦慮の挙げ句、真上からの俯瞰図ならば、物の前後関係が高いか低いかに絞られて見通しも良く、横からの風景に比べれば複雑に物が見え隠れすることも少ないだろう、ということで、まずは絵を描く上での自分の悩みを減らそうとしたのです。そして更に、空間的に物が重なっているという描かれ得ぬ事実についてなんとか打破すべく、いっそのこと「線を重ねない」という無謀なルールを自らに課したのです。一般的な描き方であれば線を重ねるべき局面になると、竹村は線を突き当たりで折り返させたり迂回させたりと、とにかく線を物陰から逃がし続け、パースを狂わせてでも描けるだけ描いていきます。それにより、妙な方向に隙間を求めてはみ出してしまったような奇妙な景色が描き出されていくのです。結果としてこのことが竹村のドローイングの独自性となり、以降も継続して制作する作品バリエーションの一つとなっています。しかし、根本的に自分の中で蟠っている物陰の隙間に存在する空間についての問題を解決するため、線をうろうろと平面内で逃がし続けるだけではなく、今度は描く線そのものに物質性を与えることで三次元的な逃げ道によって突破口が開かれるのではないか、と考えたのです。それが、冒頭に述べた、絞り出した絵具の線を中空につまみ上げる、という手法です。
線が物質性を得ることで線はもはや二次元上に重なるのではなく、事実、上の線は下の線を物理的に乗り越えるという上下関係が生じ、実態に即した表現ができるようになります。橋桁を建てて道を実際に立体交差させ、タワーは「高さ」を持ち、樹々は「生い茂る」のです。よって画家は絵画上に存在する全ての空間描写(物陰の空間についてまでも)に対して責任を果たすことができ、あのビルの裏側には何が在るのだろう、という他者の想像任せの表現をしなくて済むようになるのです。胸のつかえが下りたかのように、以降の竹村は様々に表現を広げていきます。ドリッピングや色面構成による抽象表現の模倣や、製図用紙のようなグリッドを基準に描いた幾何学的な構図のもの、同程度の明度の二色で描き分けた背景と線描の色の対比によって視差効果を狙った作品など、いずれもある種の絵画的な規範を基にした要素を構成として保持しながらも、表現主体となる線描は絵筆によらず絞り出しによる立体的な線である、という不文律を守って制作されています。例えば、ドリッピングされた絵具の躍動感と色彩のダイナミズムに目を奪われて近づくと、初めは荒いマチエールかと思われたものが建物、タワー、さらにはクレーンや観覧車であることが分かり、そしてそれが予想外なまでに中空に向けて突き立っている様子に驚かされます。一旦、そうした立体的なディテールを認めると、当初は抽象的に見えていたドリッピングによる飛沫が川や湖や道路、滑走路等を表していることに気付かされます。このように竹村の作品には常に鑑賞者との距離を固定させず、微視的/巨視的視点が同時に存在していることも注視するべき点です。画面構成が俯瞰視点であることも一因となっていますが、まるで衛星写真の画像をズームしていくかのように、終いには画面に立ち上げられた観覧車やビルの内側にまで意識を潜り込ませるように視線を誘導していきます。ドローイングでは実現出来なかった、遠近法などの小手先の技に頼らずに実際にある空間を描くということ、それをあくまで絵画として成立させること、その条件のいずれも満たす手法を得て、竹村の線描は圧迫から解き放たれて空間に伸び上がり我々の目を待ち構えるかのようです。
この一方で、今度は、絵画の中に導入した空間的な重なりをもう一度平坦に戻すという作品にも着手しています。線を立体化させることによって描いたものが実際的な空間性を得たのですから、それを応用して層を重ねるように全ての要素を描き続けていけば、前からは見えない物陰の空間や物体の存在も無視することなく、一枚の絵画面に全てを内在させることができる、と考えたのです。そこで、いよいよ構図をこれまでのような俯瞰景ではなく通常の目線からの横から見た景色に変え、より複雑で奥行きの深い空間性を描ききることに挑みます。まず、モチーフとなる風景を街中で撮影し、その写真を見て空間的な構造を分析し、写真に写っている景色を奥から手前に到るいくつものレイヤーへと分解し把握します。次に、その手前の層から奥の層の順に丁寧に全ての空間と物体を絞り出しの線によって描き重ね、色面が必要な部分は、絞り出した線の上から塗り絵のようにベタ塗りしておきます。ここで特に留意すべきは景色の奥から前の順に重ねるのではなく、前から奥の順であるという点です。まるでガラス絵のように、風景の前後を逆転させて描いていくのです。つまり、全ての層を描き重ねた状態の画面を見ても何を描いたものなのかは「まだ」全く分からない上に、景色の重なりが多い部分はそれだけ分厚く不均一な画面になっています。そこで、画面が十分に乾燥するのを待ち、今度はサンドペーパーによって全面がフラットになるように研磨していくのです。すると、画面の上層部に描かれた「奥」の景色が徐々に消え、その裏側から「前」の景色が研ぎ出されてきます。そうすることで当初異なる空間の層として積み上げるように描き重ねたはずの風景の構造が次第に一つに溶け合うように平面絵画として現れてくるのです。この研ぎ出しの手法によって、ドローイングでは手出しできなかった重なりの裏にある無視され続けた空間に、絵画(同一平面の)としてようやく手が届くことになり、絵画表現における空間の描出についての可能性を竹村に更に大きく開いたのです。
今回の個展では、「Factory」というタイトルが示すように、制作の行程そのままが作品化されたような新たな展開も見せています。製図面のように10mmのグリッドが画面全体に引かれ、更に目盛りで囲まれたエリアが作られた中に箱庭のように街並が広がっています。そのエリア外には街並を形成するビルや観覧車やクレーン等とそれらを組み立てる構成パーツが一つ一つ説明的に整然と配されています。目盛りに囲まれたそれはまるで地形解析用のレーダー画像の様でもあり、作品内の世界を創造するための指示書のようでもあります。建物を造るためには、展開図として描いた各パーツを乾かして組み立てること。高速道路や橋を建てるには、橋脚の上に予め乾燥させておいた細長い線を乗せていくこと。画面を見ている内に、描かれている街並を分析して、どのようなルールで、どのような世界を竹村が創造しようとしているがを事細かに紐解いていくことができます。解放された線が空間に自由に伸び上がるまでに至った竹村の作品に、今度は鑑賞者と世界観を共有するためのスケールとシステムが加味され、見る者は天地創造の神の目を得たような竹村の高揚感を追体験するのです。