●自然と人間、写真と映像の界面
フランス国立造形芸術センター(CNAP)の写真コレクションのキュレーターである、パスカル・ボースによって選ばれた作品は、厳密には写真ではなく、映像作品であった。
映像作品と言っても、起承転結があったり、ストーリー性があるわけではない。写真のようにある固定されたフレームの中で、カットの転換がなく、あたかも静止画のように、映像作品が「展示」されている。
このような作品は、エンパイア・ステート・ビルディングを固定されたフレームで撮影し続けたアンディ・ウォーホルの《エンパイア》(1964)や、古くはリリュミエール兄弟のシネマトグラフを想像するかもしれない。しかし、静止画と動画の境目のなくなった今日のデジタルカメラがもたらした必然的な表現のようにも思える。
京都芸術センターの最上階にある茶会のできる和室「明倫」で展示されていたフランス人作家、マルセル・ディナエの作品は、和室の障子戸の下部に6台のモニターを等間隔に立てかけて展示されていた。
《泉》(2010)【※Photo1】と題されたディナエの作品は、透明な水底や水面を、固定したフレームで映し出した映像作品で、白く細かな砂塵を撒き散らしながら湧き水が噴出している。
水の透明度があまりに高いために、差し込む光のゆらめき、噴き上げられる砂、海老などの水中生物の動きを通してしか、「水」を確認できない。しかもまったく音はカットされているので、静かな空間にモニターの発光する光だけがゆらめいている。
薄暗い和室に、白い砂の水底が映し出されており、日本人なら枯山水を連想するかもしれない。
【Photo1:Marcel DINAHET, Sources, 2010, Centre national des arts plastiques © Marcel Dinahet / CNAP】
ミカエル・フォン・グラフェンリードの《アフリカへのまなざし》(2008)は、アフリカのカメルーンの村落を少し離れた距離から固定されたフレームで撮影している。時折、人々が移動したり、ハエが飛び交ったり、動物の鳴き声が聞こえたりしている。定点カメラで撮影された映像を覗き見しているようでもあり、クローズアップやパンもされていないため、現場に立ち会っているかのように感じる。鳥などの動物の声がやけに生々しく感じられる。作家がその撮影の現場にいるのか、あるいは遠くの方にいるのかわからない。そこで作家は消失しているように思える。
アドリアン・ミシカが展示している二つの作品は若干趣向が違う。《Black Sand Beach》(2011)【※Photo2】は、南の島であろうビーチの巨大な木のオブジェが撮影され、そこに老人が手をのばしてもたれたり、うろつき回ったりしている光景が映し出されている。こちらも固定されたフレームであるが、近景であるためより人の存在を近く感じる。BGMが流されており、牧歌的な雰囲気が醸し出されている。
もう一つの作品《ダルヴァザ》(2011)【※Photo3】は、旧ソ連、トルクメニスタンのカラクム砂漠の中央部にあるダルヴァザ村のクレーターを撮影したものである。「地獄の扉」と名付けられたこのクレーターは、直径は60mほどあり地下から噴出する天然ガスが数十年燃え続けているという。有毒ガスが地表に出てこないように火をつけたものの、いっこうに消えず燃え続けているという説があるらしい。一瞬ハワイの火山から漏れる溶岩を映したものだと錯覚した。マルセル・ディナエの《泉》とは対極であるが、地下から湧き出す大地のエネルギーであることは変わりない。
しかし、いくつかの印象的なカットで切り取られ、遠景からクローズアップまで、シークエンスになっている。BGMもつけられており、スぺクタキュラーな被写体がより迫ってくる。人の存在は見えないが、アドリアン・ミシカの作品は、両方、人が介在した光景であることは間違いない。このコントラストは意図されたものだろう。
世界第四位のトルクメニスタンの天然ガスを巡って各国が資源開発を争っており、ロシアからの輸入依存率の高いウクライナや欧州が抱える問題とも無関係ではない。「地獄の扉」は隠喩的であると言える。
【Photo2:Adrien MISSIKA, Black Sand Beach, 2011, Centre national des arts plastiques © Adrien Missika / CNAP】
【Photo3:Adrien MISSIKA, Darvaza, 2011, Centre national des arts plastiques © Adrien Missika / CNAP / photo : Galerie Bugada & Cargnel】
4月20日(日)には、マルセル・ディナエの作品が展示されている、京都芸術センターの和室「明倫」において、パスカル・ボースとディナエによる対話が行われ私もそこに参加した。
今回、パスカル・ボースは、「Supernature」という展覧会名とともに、エコロジーとフィロソフィーを組み合わせた造語である「エコソフィー」という概念を提示し、人間と自然に対する深い洞察や視点を持った作品群を選びだした。
マルセル・ディナエの《泉》は、もともとはポントワーズ県にあるシトー修道会のモービュイソン修道院の依頼によって制作されたものだという。二人に確認したわけではないが、ポントワーズには、アベィ・ド・モービュイソン現代アートセンターというものがあり、修道院を利用してビデオアートやインスタレーションを企画しているのでおそらくそのことだろう。「アベィ」は修道院のことである。ポントワーズ県はパリ北西部にあり、イル=ド=フランス地域圏に属し、パリもそこに含まれる。セーヌ河の支流にあり、パリと同様に海のない地域である。
シトー修道会は、カトリック教会に属し、ベネディクト会から派生したとされている。シトー修道会は、戒律を重んじ、彫刻や美術による教示を禁止しており、ビデオアートやインスタレーションなどの現代アートの積極的な紹介はシトー修道会が評価する芸術の文脈の中に位置づけられるのかもしれない。
マルセル・ディナエは「近くにあるが目に見えないもの」をテーマに制作した。モービュイソン修道院では、かつて自給自足をしていたため、水が不可欠であるとマルセル・ディナエは考えたそうだ。そこで水源5kmほど辿って調査をしていくと幾つもの泉を発見した。
森の中に湧き上がる透明な湧き水を発見し、それらを撮影したのが本作品である。そこでパリ盆地もかつては海であるという認識を深くしたという。また、現地の人も湧き水の存在を知らなかったため、まさに近くにあるが目に見えない恩恵について気付かせることになった。
このように、見えないものを見える形で提示することは、アーティストの大きな役割だとパスカル・ボースは言う。各5分弱の映像をループさせて流しているだけだが、それは人々の意識に何かを浮上させるには十分な表現なのかもしれない。また、この作品は修道院の外部で展示するのは初めてであり、その場所に合わせてインストールすること、インスタレーションが重要なのだとのことだ。だから、京都の茶室に合わせて、インストールすることを強く意識したとのことである。
マルセル・ディナエは、かつて彫刻作家であったらしい。彫刻作品を海にうずめ、水に潜って無重力状態になることで、上下左右をなくして様々な角度で撮影したり、時間を経て形が崩れていく作品を撮影していたとのことである。近年では水そのものを被写体にして作品を制作し続けているという。
彼の現在のテーマは、インターフェースであり、水は生物を生み出す源として人間と自然とをつなぐもっとも重要なインターフェースであると考えているのだという。また、水は人間の内部と外部をつなぐものでもある。
二人の話を聞いて、パスカル・ボースが提示した「エコソフィー」という概念は、マルセル・ディナエにインスパイアされているようにも思えた。
私は、彼らのプレゼンテーションの後に4つの質問があると言ったら驚かれ、一つずつ質問するよう通訳者に懇願された。質問は以下だ。
1. なぜ写真のフェスティバルに映像を選んだのか?
2. 写真の拡張として捉えているのか、リュミエールのような初期映画の回帰と考えているのか?
3. デュシャンの《泉》やジョン・ケージの《4分33秒》を意識しているのか?
4. 禅寺の石庭、枯山水に近い表現であり、それは意図したものか?
である。
パスカル・ボースは、1、2の質問に対して、今日におけるデジタルスティールカメラとビデオカメラには機能的に違いがない。また、リュミエールの前には、エティエンヌ=ジュール・マレーやマイブリッジがおり、写真は常に動きを求めてきた歴史がある。そして、現在、写真と映像の境界はあまりなくなっているとのことだった。
3番目の質問に対しては、少し補足が必要だ。実は、デュシャンの《泉》は、日本語では「泉」と訳されているが、マルセル・ディナエの作品の原題は《Sources》、つまり(水)源と訳した方がよかったのかもしれない。
一方、デュシャンの《泉》の原題は《Fontaine(仏)》であり、噴水と訳されるべきという意見がある。アングルの《泉》は《La Source(仏)》である。
そのことは知っていたのだが、日本語で《泉》とついていること、名前が「マルセル」であること、そして、「視の制度」についてパスカル・ボースが解説文で言及していたので、どの程度意識しているのか質問したのだった。
この質問は大変面白がられ、フランス語に堪能な日本人の建築家も加わり、議論は盛り上がった。結果的にはデュシャンもケージも意識はしてないということのようだが、フレーミングして展示するだけで作品になっているわけで、デュシャンとつながるところはあるだろう。
最後の質問は時間切れとなってしまったのだが、フランス人スタッフに最後の質問を教えて欲しいと言われたので伝えると、大変面白いということでパスカルに聞いてくれた。私は「日本人の表現に近いと思うのだが…」と付け加えた。
そうするとパスカルは大変喜び、だから京都の茶室で展示したかったのだと答え、満足そうであった。私は、シトー修道会の精神性と禅寺も共通するものがあると思ったし、それは偶然ではないのだろう。
このインターフェース、界面、境界領域を扱った作品は、同時に、写真と映像という境界領域によって表象されており、おそらくパスカルは両方意図したのだろう。
●記憶から逃れる地表を追うキュリオシティ
【Photo4:「火星-未知なる地表」© KYOTOGRAPHIE】
その次に見た、京都文化博物館別館で行われている「火星-未知なる地表」【※Photo4】は、さらに写真における撮影者の問題、写真と映像、科学と芸術といった様々な問題提起をする展示だったように思う。
今回の展覧会と同名の写真集『火星-未知なる地表』はフランスで出版され、昨年日本版が青幻舎から刊行されて話題となった。『火星-未知なる地表』には、2005年に打ち上げられ、2006年に火星の周回軌道で観測を始めたNASAの火星探査機マーズ・リコネッサンス・オービター(MRO)に搭載されていた高解像度カメラHiRISE (High Resolution Imaging Science Experiment、ハイライズ)が7年間に記録した火星の地表の2万8000点以上の画像から約150点が厳選されている。
編集したのは、写真家でアート・ディレクターでもあるグザヴィエ・バラルであり、彼の視点で画像が選ばれているが撮影者はもはや人ではない。火星探査機マーズ・リコネッサンス・オービターであり、そこに美醜の判断や恣意性はない。監視カメラに近いが、現時点では人が辿りつけない場所にあり、機械の眼でしか写しえない写真だろう。
それを作品と言えるのか?それを選ぶことで作品になりうるとしたら、またデュシャンの議論に戻らなければならない。では、グザヴィエ・バラルはどのような視点で選んだのか?
ちょうど、私が伺った時間帯は、アート・プロデューサーの小崎哲哉さんがモデレーターとなって、グザヴィエ・バラルと京都大学教授で花山天文台長の柴田一成氏を迎えて座談会をしている最中であり、話を聞きながら鑑賞した。
小崎さんは、前日にグザヴィエ・バラルとアーティストの高谷史郎を交えたトークショーでも、選ばれた画像が、現代アートの様々な作品に類似していると指摘し、そのことを意図していたのではいかという質問をしていたようだった。しかし、グザヴィエ・バラルは、人間は何か未知なものを見ると、自分の見てきたものに当てはめてしまうが、そういう記憶にない興味深いものを選ぶようにしたと言う。
それは芸術的な文脈に当てはめるものでもなく、科学的な重要性に基づいたものでもない。未知なものへの好奇心で選んだということだ。その好奇心が、科学者や芸術家に対して新しい好奇心を生んでいく。
例えば、小崎さんはアート側からの視点、柴田さんは科学者の視点でそれを見て新たな好奇心を呼び起こされていたが、選択の判断はグザヴィエ・バラルの好奇心に基づいているので必ず未知な領域にぶつかる。そのお互いの未知な領域こそ両者が交わる可能性だとも言える。
好奇心と言えば、英語でキュリオシティであり、2011年に打ち上げられ、2012年に火星に到達した火星探査機マーズ・サイエンス・ラボラトリー(Mars Science Laboratory)の愛称でもある。グザヴィエ・バラルは、『火星-未知なる地表』のタイトルもキュリオシティにしたかったが、先に名前を付けられてしまったので断念したと言っていた。しかし、キュリオシティのデータで本を作るときは、その名前がつけられると述べていた。
さて、肝心な展示は、『火星-未知なる地表』から選ばれた9点の高精細画像が両壁面に展示されており、高谷史郎は、ソニーの4Kの大画面高解像度ディスプレイ(6m×4.4m)を使ったビデオ・インスタレーションを展示していた。
そこには、火星の地表の高精細画像をまるで周回軌道から見ているように縦スクロールでゆっくりと動かし、一列ずつ画像から抽出されたモノクロの縦線に変容していき、再び火星の地表に戻っていく映像が流されていた。
それはかつて高谷史郎が《Topscan》シリーズで使用した手法であると同時に、高解像度カメラHiRISEが撮影したデータをスキャニングするように一列ずつ読み取りテープ状の画像として記録していくことへのアナロジーにもなっている。火星の地表がモノクロの線に還元され再び凹凸のある高精細画像に変化していく様子は、機械の識別と人間の認知を往復しているようにも思えた。
座談会では、科学者とアーティストとコラボーションの可能性についても言及されていた。
今回、高谷史郎が見せた表現は火星の地表やそれを捉えたメディウムの存在を再発見させるものであり、グザヴィエ・バラルのいうキュリオシティを多くの人々に喚起させる役割を十分担っていただろうと思う。
これは展示を見たすべての人が関心のある点だと思うが、今回提示されている画像はすべてモノクロなのである。もちろん、圧倒的に高機能のカメラなのでカラーが撮れないというわけではない。赤 、青–緑、近赤外の3つのカラーバンドを持ち、300km上空から30cmのものを識別できる。地球の商用衛星が搭載しているカメラよりもはるかに性能が高い。
しかし、赤のカラーバンドが6kmをカバーできるのに対し、カラーだと1.2kmになるらしい。色彩の豊かさよりも、単色による幅広い地表の微細な情報を選択したということだろう。しかし、モノクロにしたことで人間の意識を地表の微細な表情に集中させることに成功しているように思う。
モノクロにしたこと、6kmの視野を「ノートリミング」でそのまま使うこと、好奇心に基づいて選んでいることは本質的な意味でディレクションだと言えるだろう。
様々な微細な凹凸に名付けられている山脈やクレーター、砂丘、氷河、あるいは名もないものを容易に「理解」することはできないが、同じ太陽系の惑星であり、水が存在し、生命の痕跡、生命の存在の可能性があり、太古の地球の似姿であると同時にまったく異なる位相であることに、「情報」を超えた何かを感じざるを得ない。
紹介した二つの展覧会からは、写真か映像か、アートか科学か、人間か機械か、人間か自然か、演出か非演出かなど、様々な二項対立の問題系を浮上させるとともに、インターフェースやキュリオシティなど、それをブレイクスルーするヒントも提示されているように思われた。
また、写真が未だに視覚における技術革新を担っており、様々なジャンルを横断できることが写真の可能性であると改めて認識できた。そして、今後も未知の姿を見せてくれることを期待させてくれた。
写真は私たちをとりまく環境を映す最適な鏡だと言えるだろう。その鏡の姿が少しでも良い方向に変化したならばこのフェスティバルの目論見は成功したと言える。そして、来年は、まったく違う写真を体験させてくれるに違いない。