KAB Dialogue インタビュー/対談

Vol.49

インタビュー2016.06.24 UP

私は現在の演劇のかたちを拒否する方法を探そうとしました。

ユン・ハンソル (Hansol Yoon)(演出家)

  • 聞き手:岩村空太郎(京都芸術センター アート・コーディネーター)
  • 撮影:Kim Song Gi
  • 翻訳:古川萌
  • 翻訳協力:Micheal Whittle

京都芸術センター アーティスト・イン・レジデンス プログラムの公募アーティストとして、2015年5月から8月まで京都に滞在し、8月2日に新作『国家-Nation-』のショーイングを行った、韓国の劇作家・演出家ユン・ハンソルさんに、お話を伺いました。

-まず、ご自身のプロフィールについてお聞きしたいと思います。舞台演出家として活動しはじめたきっかけは?

はじめて舞台に触れたのは1991年、大学で演劇クラブに入ったときでした。それから93年までは軍に従事しなくてはならず、その後94年に大学に戻りました。演劇クラブで演出をはじめたのはその時です。大学4年生のころ、ソウルの劇場街テハンノで劇場を借り、エドワード・オールビーの『動物園物語』という演目を上演しました。誰も来ませんでした。というのも、私は学生の演出家で、私たちは広報宣伝を一切しなかったからです。演劇の世界がどのようにして機能しているのか、そのシステムを私たちは知らず、したことといえば、劇場を借り、ポスターをつくり、そのポスターを通りに貼っただけでした。でもね、そんなの誰が気に留めるでしょうか。そこで考えたのです。どうしたら演劇をつくれるのだろうか?何を学び、何を知る必要があるのだろうか?私はミュージカル劇場で仕事を得ることにしました。劇場を借り、観客もなしに上演しているだけでは、どうにもならないと思ったからです。演劇のシステムがどのように機能するのかを学ぶためには、すでに確立されたシステムがある場所、すなわち商業劇場やミュージカル劇場が最適でした。それで、ソウルにある大きなミュージカル制作会社のひとつ、ACOMで職を得て、そこで1996年からニューヨークに発つ2000年まで助監督として働いていました。ミュージカル劇場で働くのは、とてもわくわくする経験でした。しかし時が経つにつれて、私がやりたかった演劇はこういう種類のものじゃないとわかってきました。ミュージカル劇もとても好きなのですが、私には何かもっと芸術的なものが必要でした。私は、彼らとは異なるセンスの持ち主であることに気づいたのです。 その頃はすごい勢いで飲んでいましたね(笑)。20代の頃に演劇関係の仕事をしていて、特に若いグループに属していると、毎晩遊び歩きます。飲み代はときどき一部負担するよう言われますが、たいていは年長の人たちがすべて持ってくれます。なので、リハーサル後や本番上演後の食事や宴会に行くのにお金をもっている必要はほとんどないんですよ。その頃は浴びるようにお酒を飲んでいて、飲酒癖を止めないといけないと本当に思っていましたし、同時にニューヨークに勉強に行きたいとも強く思っていました。ここで2つのニーズが出会ったわけですね。飲酒をやめることと、ニューヨークで勉強することと。それをするためには国を離れる必要がありました。ニューヨークを本当に見たかったんです。そこでニューヨークの大学や大学院を探しましたが、演出コースのある大学院ってあまりないんです。コロンビア大学とニュースクールを選びましたが、幸運にもコロンビア大に入ることができ、演出を勉強しはじめました。コースを修了したあと、同級生たちといっしょに「グリーンピグ(Green Pig)」という劇団をつくりました。イギリス人の脚本家、アメリカ人のドラマトゥルグ、ニューヨーク大のデザイナーが何人かで、みんなで劇団を立ち上げました。

-現在のグリーンピグはこの時に生まれたのですか?

いえ、ニューヨークを離れてしまっているので、ニューヨークのグリーンピグはもう存在しません。現在のグリーンピグは、ニューヨークでつくった劇団から名前を取りました。演出コースは2年間で、3年目に修士論文を書かなくてはなりませんでした。劇団をつくったのは2年目の終わりごろで、これが演出家としてのキャリアのスタート地点だったと思っています。

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ユン・ハンソル (Hansol Yoon)

-とくに演劇やパフォーマンスの分野で、当時のニューヨークと韓国での空気に、違いを感じましたか? 

生き残りにくさという点では同じだと思います。生き残るのは非常に厳しい。若い演出家はみんなパートタイムの仕事を見つけないと生計を立てることはできません。みんな、非正規社員やウェイトレスのような臨時雇いとして働いていました。 駆け出しのアーティストたちが始めたばかりの小さな劇団にとって、観客を得るのはとても難しいことです。ニューヨークでも韓国でもほぼ同じですが、ニューヨークにいた時に感じられた違いのひとつとしては、観客が多様性に対してはるかにオープンだということでした。若いアーティストたちを育成する劇場や団体もありましたし、インディペンデント演劇祭もありました。演劇祭はそこまでサポートしてくれるものはありませんが、数日間場所を貸してくれます。作品を誰かに見せる機会、どこかのプロデューサーに見せる機会が得られるのです。とにかく、観客は多様な演劇や、実験的な演劇にはるかにオープンでした。でもそれ以外は、どちらの土地もほぼ同じですね。

-なるほど。ところで、なぜそもそも演劇をしようと思われたのでしょうか?

私の人生はある意味、父との闘争です。私が芸術の世界にいるのを父は常に嫌がりました。中学生のころは画家になりたくて、美術系の高校に行きたかったのですが、父は許しませんでした。また、大学では映画の勉強がしたかったのですが、父に反対されました。当時は父の言うことにはなんでも従わなくてはならないと思っていたので、きっぱりあきらめました。しかし、大学に入った後は何か「ぶらさがる」ことができるものを見つけなければなりませんでした。それは私にとっては非常に難しいことでした。映画のことを考えずに過ごすのは辛かったです。そこでキャンパスをふらふらと歩き、何か私が参加することができるサークルか学生のクラブ活動を見つけようとしました。詩の朗読、文学、詩の創作サークル――演劇については思いもつきませんでした。というのも、その瞬間まで一度も演劇を見たことがなかったからです。20歳になるまで、演劇は完全に未知の世界でした。おそらく5、6歳のころに子供向けのお芝居を見たことはあったと思いますが、それだけです。そこで大学で歩きまわって、学生の演劇クラブを見つけました。当時はまだあまりに無知で、映画と演劇はだいたい同じものだと思っていました。なんて無知だったんでしょう(笑)。 このような経緯で演劇クラブに入ったのですが、私の心をとらえたのは、ほかの学生たちとの最初のミーティングに参加したとき、彼らがとても熱心だったということです。彼らは毎晩演劇を勉強して、毎晩リハーサルをしていました。私は彼らに尋ねました。「いつ勉強しているの?」彼らの答えはこうです。「勉強はしてない!」(笑)驚くべきものでした。空気がとても違っていたのです。彼らは非常に熱心で、それは本当に特異なものでした。当時の私は単なる怠け者のだめなやつでした。いつも午後2時に起きていましたし、みんなが大学生に対してもっているイメージそのものです。何もしないで、タバコだけはいつも吸って、歩き回るだけの…。

-飲んで、寝て…

そうそう。それが私が演劇クラブを選んだ経緯です。

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ユン・ハンソル演出『国家-Nation-』,京都芸術センターアーティスト・イン・レジデンス成果発表公演,2015

-ニューヨーク時代のことをもう少し詳しく教えてください。

はじめてニューヨークに行ったときは2000年で、当時は何をしたいのかあまりよく分かっていなかった。今思えば、私は有名になりたかったんだと思います。ロバート・ウィルソンのような有名な演出家に。その当時はロバート・ウィルソンがつくるようなものをつくりたいと思っていました。とても視覚的なものを。そして私の滞在が2年目に入るころ、9.11同時多発テロが起こりました。とてもショッキングでしたが、正視しなくてはならない恐ろしい出来事でもありました。私が生まれたのは1972年のソウルで、朝鮮戦争の20年後。多くの学生が亡くなるような、激しい学生運動を見てきました。90年代はじめに入っても、学生がデモで警官に殴られ、命を落としていたのを覚えています。しかし、こんな出来事を経験するのははじめてのことでした。朝の8時ごろ両親から電話があって、飛行機がワールド・トレード・センターに衝突したと知らされ、テレビをつけるように言われました。テレビではレポーターが最初の衝突について報告していましたが、その後ろで2機目の飛行機がタワーに飛び込んでいくのが見えました。しかも生中継で! 同時に、ワールド・トレード・センターと飛行機という組み合わせは、超現実的にも思われました。私はアッパー・ウェスト・サイドに住んでいたので、現場のほうに向かってマンハッタンを降りていってみようと思いましたが、道はすべてふさがれてしまっていました。しかし、灰は見えました。それから何日にもわたって、ニュースでは死者の数を読み上げ、何が起こったかを説明しており、この出来事についてたくさんの話が飛び交っていました。「なぜこんなことが起きたのか?」と自分に問いかけたのは、この時だったと思います。これは、交通事故で誰かが亡くなったというのとはわけが違います。かといって、泥棒がナイフで誰かを刺したというのとも違います。数えきれない人々が亡くなったのです。 それからは、大学在学中に勉強した理論や本に立ち戻りました。あまり勉強していませんでしたが、試験にパスするために少しはしていたんです。学部生の頃は、演劇の本を読んでいました。それから、ニューヨークに来て演劇を勉強し始めた頃に、社会や戦争、哲学、政治についての本も読みはじめました。こうした読書は、私の世界に対する視点のみならず、創りたい演劇に対する視点をも完全に変えてしまったのです。

-社会的な問題に目を向けるようになり、その後の方向性が見えてきたということでしょうか。

なぜこうしたことが起こったのか?なぜこの人々はお互いに殺しあっているのか? 個人間の殺人はまだわかる部分もあります。人間ですから、怒ることもあるでしょう。でもこの事件は起こってはならないことです。この世で犯す最悪の過ちです。9.11のあと、物事を問うということを始めました。 9.11のあと、変わったのは外の世界だけではないということです。私自身の世界、つまり私が創る演劇自体も問わなくてはならなかったのです。私はさまざまな疑問を抱きました。なぜこのようなことが起こったのか。なぜ戦争は起こるのか。なぜ争いがあるのか。なぜヒエラルキーがあるのか。なぜ一部の人びとはものすごく裕福なのか。私たちにはありあまるほど食べ物があるし、多くの食べ物は街では捨てられていきますが、それでもなお世界には餓死する人びとがいる。演劇にも同様の疑問を投げかけました。なぜこのようなヒエラルキーがあるのか。スター役者は演劇にいなくてはならないのか。演劇には大役と脇役があって、役者はこの二つに異なるアプローチを行います。大役の役者はより重要な人物だとみなされますが、脇役はその反対です。なぜ私たちはこのようにしなくてはならないのか。これが演劇の唯一の方法なのか、と。 私は現在の演劇のかたちを拒否する方法を探そうとしました。“何”をしようとしているのかは分かりませんでしたが、ただ“それ”だけはしない、という確信はありました。ここが出発点です。 そうした方法のひとつが、集合的な制作です。演出家としていくらかの原動力を与えることはありますが、たいていは集合的に作品を創ります。また同時に、作品の所有についても考えはじめました。私は作品の所有権を全員に同じだけ持ってほしくて、私自身を含めた全員を刺激する異なる方法をいつも探しています。現在目指しているのはそんなところです。

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ユン・ハンソル演出『国家-Nation-』での制作風景,京都芸術センターアーティスト・イン・レジデンス成果発表公演,2015

-今回京都芸術センターで創作した『国家』では、出演者全員で、一緒にせりふを集めて作品を作っていく方法を試みました。この方法は、今回のみの特別なものでしょうか?

似たようなことはやったことがあります。少し異なりますが、論理は同じです。本や記事からの引用や、自分で思いついたことばを集め、それらをひとつにまとめる方法を探すのです。ことば同士のまとまり方に論理が見出されることもありますし、今回のように不合理なこともあります。しかし、こうしたプロセスを通して私が発見したのは、せりふやことばはお互いに衝突しあい、この衝突は、発せられたこととは異なる意味や感情をもたらすということです。衝突は思いがけないものを生み出します。今回の新しい点は、せりふの順番の決め方です。グリーンピグでの集合的創作では、こういうせりふのチャートをつくるとき、毎回異なる方法を見つけることにしています。

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ユン・ハンソル演出『国家-Nation-』での制作風景(せりふのチャート),京都芸術センターアーティスト・イン・レジデンス成果発表公演,2015

-では毎回システムを変えているのですか?

そうです。毎回ランダムにルールを変えます。身長で決めるときもあります。背の低い役者から高い役者へ、というような順番で。また性別を交互にすることもあります。ルールはいくらでも変えられますし、そこで何が起こるか試してみるのです。面白いことに、私が何も言わなくても、役者たちはせりふを言うときに特定の態度を取ろうとするのです。たとえば、私が何かせりふを言って、次のせりふが直前のせりふに対して意味不明なとき、演者たちはみんな「これはどういう意味だろう?」とお互いの顔を見合わせ、それから「うーん…これが意味するのはたぶん…」と考えはじめるわけです。でも彼らが考えているあいだ、次のせりふが読まれます。次のせりふは解釈の助けになるかもしれないし、ならないかもしれません。こうした流れが続いていきます。これは「AはBである」と理解するためのものではなくて、思考の車輪を回すためのものです。たとえそれがしっかりした結論を導き出さないとしても、私たちはこれを続けなければなりません。考え続けることです。 こういうやり方では偶然によって決まるように感じられますし、実際そういうところもありますからね。でも、自身の想像力と協力できる唯一の確実な道は偶然を取り込むことなんです。そうでなければ、とても出来のよいことにだけ集中してしまうでしょう。それを何度も何度も繰り返し、毎回うまくできている。そういうことに興味はありません。私にはもっと想像力や、偶然の出来事が必要です。何か考えさせられるものです。観客に「すごい!」と言わせたいわけではありません。むしろ観客には「これはいったい何だ?」と思ってほしいのです。

-日本の演劇や日本のアーティストたちについてどう感じましたか?

アンダースローで地点(演出家・三浦基が代表をつとめる劇団)の公演を見ましたし、村川拓也(演出家・映像作家)KUNIO(演出家・舞台美術家の杉原邦生が主宰するカンパニー)の公演も京都で見ました。山下残(振付家・演出家)の公演もこれから観に行きます。とても驚いたのは、日本は韓国と非常に異なる地域性があるということです。韓国ではあらゆるものがソウルに集中しています。ソウルほどいろいろな公演がおこなわれる都市は国内ではほかにありません。光州は今やそういう都市と言ってもよいのかもしれませんが、文化施設をつくってそこに全部放りこんでいる状態なので、また別問題です。ですので、芸術的活動という意味だけでなく、芸術の世界で生き残っているという意味でも、地点をはじめとする京都のあらゆる演出家、村川さんもそうですが、ここで活動しているアーティストの方々は非常に上手くやっていると思います。とくに地点は私にとって驚くべきものです。彼らのスペースの運営の仕方は、あらゆる舞台演出家や劇団がやりたいと望むものでしょう。自分の劇団のスペースで一年間通して公演するレパートリーを持ちながら、大きな演劇祭での公演も行う。そうした活動が強い劇団をつくるんだと思います。地点は劇団ベースの制作をしているのが分かります。彼らの作品を見ると、役者と演出家が彼ら自身の語彙を見つけるのにたいへん苦労したということが分かります。彼らの話し方、動き方、そうした言語を発見するのに長い時間をかけたことが見ていて理解できるのです。とても面白かった。京都だけではありません。柴幸男(ままごと主宰・劇作家・演出家)など、たくさんの若い演出家が東京を離れて活動しています。私に言わせれば、そらは日本におけるとても興味深い動きです。地域に根ざしたアーティストたちの中には、京都に拠点を置き、そこで活動するのみならず、しっかり成功している人々がいます。 もう一つは、京都には、とりわけ京都芸術センターにはアーティストを育てる環境があるということです。私の場合だけかもしれませんが、自分の制作するペースを尊重してもらえていると常に感じました。間違っているかもしれませんが、アーティスト・イン・レジデンスは芸術的に過ごせる息抜きの時間です。アートワールドに属していながら、締め切りまでにあれやこれや仕事をしなくてはならないわずらわしさから逃れることができるのです。私はここに来たとき、そういう時間を期待していました。ただ本を読んで、プロジェクトのことについて考える。あれこれしなくてはならない、特定の時間に特定の場所にいなければならない生活ではなく、ただ時が流れるままに過ごす。ここはすばらしい環境です。とても歓迎されていると感じますが、同時に何かするよう強要はされません。

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ユン・ハンソル演出『国家-Nation-』,京都芸術センターアーティスト・イン・レジデンス成果発表公演,2015

-最後にもう一つ質問があります。滞在中、主に政治の面で日本と韓国の間にさまざまな問題が起きています。アーティストとしてどういったことができると思いますか?

ええ、それこそが、私がこのプロジェクトをしている理由です。韓国を訪れた日本人に会うと話すこともあるのですが、私たちのような一般市民の個人間の関係は、政治とは何の関係もありません。竹島問題、従軍慰安婦、中国との諸問題などありますが、個人的に人に会うときは完全に別の話です。政治面で何が起こっているか知っておかなくてはなりませんが、それと同時に、日本人と韓国人との間で関係を結ぶ別の方法もあるのです。多くの日本の人びとが人権のため、貧困をなくすため、ジェンダー問題のために活動していますし、多くの演出家や演劇に携わるアーティストたちが社会にひそむ対立を扱い、アーティストが取り組むべき問題や、アーティストが作品を通して言うべきことに目を向けているのを私は知っています。 多田淳之介(東京デスロック主宰・演出家)と私は去年の冬にワークショップをおこないましたが、そこで話したことの一つは恥ずべき問題に直面したら、団結しなくてはならないということでした。お互いに話し合って何か一緒につくるべきですし、両方の国で一緒に問題に取り組むべきです。安山でフェリー転覆事故についての公演をおこなったとき、彼が来て参加したのはそのためです。彼は安山に来たのは同じ考えをもつアーティストの団結のためだと言っていました。こういうことは、ソウル公演や京都公演を計画することよりずっと重要だと思います。各地で公演を行うという形での文化交流は実はあまり意味がありません。日本と韓国は往復するのもとても簡単です。文化的交流を望むならば、それはもっと個人的なレベルでやるべきです。 たとえば、日本で原子力発電所を閉鎖することについて考えてみても、実のところ、日本から400キロ離れた韓国東海岸には20の原子力発電所があるので、日本で原子力発電所を閉鎖してもあまり意味がありません。韓国の発電所も古いので、日本と同じ問題を抱えています。本当に安全な環境を手に入れる唯一の方法は、協力することなのです。

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ユン・ハンソル(Hansol Yoon)

1972年生まれ。大学で社会学を専攻した後、漢陽(ハンヤン)大学演劇映画科大学院、コロンビア大学大学院で演劇を学ぶ。2006年にグリーンピグを結成し、代表と演出を務める。07年、『私は嬉しい』 で文芸振興基金新人アーティストに選定される。10年にはソウル・マージナル・シアター・フェスティバルにおいて『ステップメモリーズ―抑圧されたものの帰還』を発表。同じく10年に発表した『人は人に狼』で国立劇場フェスティバルの優秀演劇に選ばれるなど、近年、韓国で最も動向が注目される演出家の一人。11年、今後の躍進が期待される韓国のアーティストに贈られる「斗山蓮崗(トゥサンヨンガン)芸術賞」を受賞。現在、檀國(ダングック)大学校教授。

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