KAB Dialogue インタビュー/対談

Vol.24

対談2014.01.13 UP

風営法改正の取り組みから考える
〈表現の自由〉

舞台芸術制作者オープンネットワーク シンポジウム 「表現の自由をめぐって」レポート1

  • スピーカー1:斉藤貴弘(「Let’s DANCE署名推進委員会」共同代表、弁護士[斉藤法律事務所])
  • スピーカー2:原智治(京都市 文化市民局 文化芸術都市推進室 文化芸術企画課)
  • スピーカー3:吉岡洋(京都大学文学部・文学研究科教授[美学芸術学]]
  • スピーカー4:丸岡ひろみ(国際舞台芸術交流センター[PARC]理事長、舞台芸術制作者オープンネットワーク副理事長)
  • モデレーター:橋本裕介(KYOTO EXPERIMENT プログラム・ディレクター、舞台芸術制作者オープンネットワーク理事長)

「表現の自由」と言った時につきまとう、外側からその自由が侵されていく旧来的な「権力」対「民衆」のイメージは、もはや現実ではありません。無尽に張り巡らされた私たちのネットワークの内側から食い破るような形で、「表現の自由」を侵す事態は既に立ち現れているのかもしれません。ダンス営業を規制する風営法改正の取り組みという具体的な話を起点に、特に創造環境における「表現の自由」とは何か、制度上の問題や理論的な背景から議論を展開しました。

※この原稿は、2013年2月に発足した舞台芸術と社会を繋ぐ全国的・国際的な会員制ネットワーク「舞台芸術制作者オープンネットワーク」が、「表現の自由」をテーマに同年10月14日に京都芸術センターで行ったシンポジウム(主催:舞台芸術制作者オープンネットワーク/共催:KYOTO EXPERIMENT/助成:公益財団法人セゾン文化財団)の載録です。

風営法改正に向けた動き、「レッツダンス署名推進委員会」の活動事例報告

斎藤:まず経緯をご説明すると、2010年末くらいに、関西、大阪、京都を中心にですね、いわゆるダンスとお酒を楽しむ場所、色んな文化的な発信をしている「クラブ」、これが今までかつてないほど、警察の取り締まりを受けていったことが発端です。「クラブ」は、当時非常に印象が悪く、色々な事件が起きる場所、悪の温床、不良のたまり場、そういった場として見られているという残念なところがありました。それを何かトラブルがあったから取り締まるという以外に、単に「客にダンスを無許可でさせていた」ということを理由に、大規模な摘発がなされました。正確な数字はもう少し多いと思いますが、おおよそ1年間に逮捕者が60数名出て、営業停止になった店が20数店舗、クラブは小さいお店が多いので、その影響でどんどんお店が閉店していくという事態に陥っていきました。クラブ側としても、近隣の苦情や事件が起きないように対応していたんですが、それでも摘発が止まりませんでした。昔から色々なアーティストを輩出してきた老舗のクラブまでもが摘発を受けるようになっていって、さすがにいきすぎだろうということで、摘発の根拠となっている風営法がおかしいじゃないかと、立ち上がったのが「レッツダンス」という風営法に対して意義を唱える運動です。

橋本:その取り締まりの根拠となっている「風営法」というものが、どういう法律で、現実とどのようなギャップがあるのか、解説していただけますか。

斎藤:「風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)」というのは、いわゆる性風俗だけではなく、色々な時代の風俗に関係する商売を規律する法律で、その中で「ダンス」は一番はじめに規制の対象として挙げられていて、「客にダンスをさせる営業」と「ダンスをさせて飲食をさせる営業」は、警察、公安委員会の許可の元でしか、営業ができないことになっています。これはクラブだけではなく、お客さんにダンスをさせる営業すべてが対象となっていて、例えばダンス教室もその一つとして含まれます。もともと1948年に成立した法律ですけれども、戦後まもない、日本がとても貧しい状況で、海外から色々なダンスに関する文化が入ってきて、中には、例えばダンスを使った売春だとか、売春の交渉のひとつの材料になるということがあり、社会を乱すものだということで、ダンスが規制の対象になったのです。それが今に至るまで、そのまま法律が残っていて、先ほどのようなクラブの一斉摘発に至ったということです。

橋本:その風営法を、時代に合ってないものだとして変えていこうと活動をされているわけですけれども、具体的にどのようなことを行っておられるのかお聞かせ下さい。

斎藤:レッツダンス署名推進委員会」というものを、去年の5月に発足させ、まずは市民運動という切り口で、署名を集めて国会に提出するという動きが始まりました。全国で、京都でもたくさん署名活動が行われていたと思うんですけれど、約一年間で15万以上もの署名が、ネットではなく実際の署名が集まって、それを今年5月に国会へ届けました。署名を提出するにあたっては、ダンスカルチャーを不当に制限してしまう法律だということで、ダンス文化推進議員連盟という議員連盟を60数名の国会議員で結成してもらい、そこに署名を届けて、今まさにその議員連盟が法律を改正するための議論をしているという状況です。

橋本:もう少し風営法のことについてお聞きしたいのですが、許可をとれば踊ってもいいことになっているけれども、多くのクラブが許可を得ずに営業しているということは、その風営法にどんな難しさがあって、そういう事態になっているんでしょうか。

斎藤:そこが重要で、クラブ側が許可をとればいいじゃないかという質問がよく出るんですけど、そんなに単純にはいきません。まず許可の条件として、店舗面積で縛りがあり、66平米(約20坪)の面積が無ければ許可が下りません。クラブは、都心部にあり、実験的なことを日々行っている場所なので資金が潤沢にあるものではないところが多く、小さなクラブがたくさん集まって、一つの文化を形成しているという側面が強いです。20坪に満たない、いわゆる小バコというところが、非常に実験的な表現の場所として重要な意味を持っていますが、そういう小さな場所は物理的に許可を得ることができません。もう一つは営業時間。許可を取ったとしても、営業は原則として夜の12時まで。条例で繁華街などは1時までにすることができますが、1時以降の深夜営業は、この国では許されていないことになっています。クラブカルチャーは長年、夜の文化として培われていた部分が大きく、それを日本の風営法に照らし合わせるとその一切が違法になってしまう。恐らくですが国内の9割以上のクラブは全て違法営業という、ちょっと信じられない状況です。

丸岡:今回の摘発以前も、3時まで営業している20坪以下のクラブは普通にあったんですよね。それまで特に取り締まりは無かったんでしょうか。

斎藤:時々警察の立ち入りやパトロール、何か事件があったときは、その事件を対象に警察が取り締まることはあったんですが、今回の一斉摘発のようなことは初めてのことですね。

原:1948年制定の法律によって、なぜ今これだけの取り締まりが、突然起こったのかについて、何か定説はあるんでしょうか。

斎藤:色んな説があるんですけれども、実際にクラブが社会に迷惑をかけてきた事例はあるので、そこに対して締め付けを厳しくしたのではと思います。あとは、恐らく日本の大きな警察行政のあり方として「浄化」とよく言われますが、夜の街を綺麗に安全にしていくという。そこでは表現という面は、優先順位がどんどん後退してしまうということが現状ですね。

橋本:署名が約一年で15万筆集まったという、スピードと量は、印象としていかがですか。

斎藤:こういった類のテーマで自筆の署名が一年間で15万集まるというのは、ちょっと信じられないくらいすごいことだと思いますね。最初皆が想像していたよりも短期間で多くの署名が集まったと思います。もちろん色んな方がボランティアで色んな所に出て行って署名を集めたことが大きいんですけれども、今回のシンポジウムと最も関連する「表現の自由」というところですね。例えばこの署名活動が、クラブ事業者の権利保護やその営業を守ろうというクラブ業界からの動きとして始まったのであれば、こんなに集まることはなかったと思います。レッツダンスの運動の特徴は、主体がクラブ事業者ではなく、クラブユーザーやそこで表現するアーティストであり、「表現の自由」という、より根本的なテーマで問題提起をしてきたことです。そこが一番大きかったと思います。恐らく世間的にクラブというと眉をひそめる大人がほとんどじゃないかと思うんですね。芸能人が悪いことをする、若者が夜遊びして馬鹿騒ぎをする、街にとっては厄介者で、そんなところをなぜ守らなきゃいけないんだというのが、2、3年前に一斉摘発が始まった時の多くの反応で、ダンスの社会的な価値というものは全然世の中に伝わっていませんでした。なので、「世界文化都市では、ダンスというものは非常に文化的価値があり、経済的なポテンシャルが高いものとして扱われている」というプレゼンを、署名活動と同時にしていきました。その中で議員の方や一般の方の中に変化があり、ダンスカルチャーは一つの表現として価値あるものだと受け入れられつつあるという状況ですね。

風営法は「表現の自由」を侵害している、と主張したからこそ広がった

橋本:ここから表現の自由という本質的な議論に進めていきたいのですが、風営法の改正にあたり、レッツダンスが意図しているのは、規制の緩和ではなくて、そもそも規制の対象からダンスという言葉を外そう、削除しようということで、主張して活動を展開されていますが、レッツダンスの中で意見が収斂していった背景や、どういう議論があってその目標を掲げるに至ったか、教えていただけますか。

斎藤:この点は今でもレッツダンスとクラブ事業者の中で色々な意見がありますが、そもそもダンスという表現行為について、警察の許可を受けなければダンスに関わる営業が出来ないというものではない、という本質論が一番ですね。単にクラブ事業者が一つの営業の自由としてクラブ営業をしているというわけではない、という主張です。普通の法律家の感覚、弁護士の感覚でいうと、クラブが摘発を受けた、その摘発を許している風営法という法律、これが何の権利を侵害しているのか聞かれた時に、一般的には、クラブなりダンススクールなりの営業の自由を侵害している、という回答が返ってくるのがほとんどだと思います。でも本当にそうなのかと現場の感覚として考えた時に、そこは単に営業の自由ではなくて、それらはダンスというものの表現の場であり、「表現の自由」ということに括るのが一番まっとうなんじゃないかと。

橋本:憲法で定められている基本的な人権としての「表現の自由」と、実際にこういったダンスを規制している法律。その憲法と法律とはどういう関係性にあるんでしょう。

斎藤:話が法律のことになりややこしいですが、とても重要なことなので聞いて頂ければと思います。憲法と法律の関係について、なかなか理解されていないことが多いですが、「憲法が法律の上位法だ、法律より優先度が高い」ということはよく言われると思うんですけれども、それが意味するところは、法律は国会や世の中がうまく流れていくためのルールとして作るもので、法律の制定、運用、執行、これを国会と内閣が行っていくという関係です。ただ法律というのは、ルールなので、ある人の自由を制約していくという側面がどうしても出てくるんですね。その時に法律の運用、つまり制定、執行が何らかの権利を侵害してしまった場合、それを救うのが憲法なんです。法律は誰に向けられたものかというと、これは国から国民に向けられたものですね。憲法は誰に向けられたものかというと、国民が国に課したものです。国も過ちを犯すことがあるので、その時にバリアとして機能するのが憲法になります。
憲法の中で色々な権利が保障されていて、国はそれを破ることが出来ないとされているんですが、その中で最も重要な権利、これが「表現の自由」と言われています。なぜ最も重要な権利と言われているかというと、単純に表現活動というのは人間の根源的な、とても崇高なもので、いろんな文化的なものを生んでいくから、ということもありますが、聞き慣れないかもしれませんが「民主制の過程論」というのが憲法学の用語にあって、「民主制の過程」を支えるものが「表現の自由」なんです。どういうことかというと、例えば、財産権、これを侵害された場合、国民は選挙に行くなり、あるいはデモをするなり、何らかの表現活動をすることによって不当な財産権の侵害された状態を回復していくことができるわけですね。しかし、「表現の自由」に関しては一旦制限、規制されてしまった場合、それを是正していくための「表現」がそもそもできことになってしまっているので、民主制の中で侵害されてしまった表現活動を回復することができない。だから一番守らなければいけない、守られなければいけない権利だと言われています。なので、風営法が「表現の自由」を侵害してしまっているというのは、そこが一番肝心ですね。

芸術表現における「表現の自由」

橋本:今、駆け足ではありましたけれども、レッツダンスの活動の中から、法律と憲法といった制度の上での「表現の自由」を確認する作業をしてきました。そういう制度だけでなく、私たち人間にとっての「表現の自由」というのは、どういうことなのかということを、理論的な立場から吉岡さんにお伺いできれば。

吉岡:風営法やクラブの問題ではなく、少し違う文脈で「表現の自由」ということについて考えていることを言いますと、僕は現代美術の活動と関わりながら研究をしてきましたが、僕の非常に親しい美術家の一人に、今このKYOTO EXPERIMENTにも参加している、高嶺格という人がいます。彼がこの間10月5日に、京都市役所の前でプロジェクト(高嶺格「ジャパン・シンドローム〜ベルリン編」)を行って、この中にも見に行かれた方や踊った方もいらっしゃるかもしれませんが、すごいなと思って。ああいうことは初めてだと思うんです。2003年に僕が「京都ビエンナーレ」のディレクターとしてスロヴェニアのアーティストに京都市役所前でパフォーマンスをしてもらったことがありましたが、その時は音も出ない静かなものだったんで、別に何も言われませんでした。ただ今回の場合は、騒音のことなどでクレームが来たらしいんですね。僕は京都生まれ京都育ちなので、見慣れた場所がああいう風に異空間になるのはすごくワクワクして楽しかったんですが、僕が言いたいのは、僕自身はダンスをする人ではないし、クラブとかにも全然行かないし、大音量も苦手なんですよね。爆音は生理的に受け付けないんです。そういう人が話すのが大事だなと思って。つまり、業界の人や、自分もそこにコミットしている人、ダンスが好きで生活の一部としてなくてはならない人たちがそれを守るために主張するのはもちろん当然なんですけども、そうじゃない人はどうでもいいのか、ということなんですよね。恐らく、ああいう公共の空間で大きな音を出したことに対して「あれは騒音じゃないか」と言う人は、「自分はそういう美術やパフォーマンスとは無縁の人間だから、勝手に好きな奴がやっているだけだろう。そういう奴が勝手に自分たちの好きなことをやって自分に迷惑をかけている」という意識からクレームというものが来るんだと思うんです。だから常に僕は、そういう「表現の自由」について考えるとき、それを好きな人やマニアとか、そのコミュニティに属している人ではない人の意識がすごく大事だと思っています。これは別にダンスや風営法の問題だけに関わることじゃなくて、実際に色んな映像や、漫画、アニメ、今話題になっている児童ポルノみたいな、そういうものの規制に関しても、同じだと思うんです。

高嶺格「ジャパン・シンドローム〜ベルリン編」 photo: Tetsuya Hayashiguchi

吉岡:先ほど斉藤さんがおっしゃった「表現の自由」は、非常に原理的な問題で、思想信条とか、政治的立場とかを表現する自由ということだと思うんですけれども、僕の場合は「芸術表現」ということになる。芸術表現というものが、表現一般とどこが違うのかと言いますと、芸術表現っていうのは価値を伴っているんですよね。それが少し騒音とか人に迷惑がかかったり、あるいはちょっと不快な感じを与えたりということがあっても、敢えてそれをする値打ちがあると判断しているということなんです。その判断というのが、先ほど言った「自分がその文化にコミットしているのかどうかとは関係ない立場」から判断されなければいけないということなんですよ。僕は美学者ということになっていますけれども、美学って何か一般の人には縁遠い、美しい物を鑑賞するような、のどかな学問のように思われているかもしれませんが、美学の根本になっている「美的判断」というのはそういうことで、つまり、関心を持たない、ということなんです。関心とは興味ではなく、利害関心。判断をすることによって自分や、自分の属している共同体やグループに利益になるから判断するのではなく、それとは一切関係なくその対象の価値を認めるということです。そういうことが今言いにくいというか、見えにくい時代になっているとは感じます。
それから、先ほどの色んな表現の内容に関する規制でいうと、法律というか刑法学で「相対的わいせつ概念」というのがあるらしくて、これはある作品に性的表現があったときに、それが猥褻かどうかということを判断するのに、普通は性器や性行為が露骨に描写されているかどうかということを基準に判断するんですよね。だけど、その相対的わいせつ概念というのは、その表現がなされた文脈、つまり制作の意図や、受容の様態などを非常に注意深く見て、それが非常に高度に芸術的な意図や知的な関心のもとになされている場合には、猥褻ではあるけれどもその猥褻性が相対化されて、規制されない、という考え方です。
法律のことはわからないですけれども、このことは、非常に僕の考えていることに近いなと思うんです。その根拠が恐らく「価値」ということなんだと思う。今の世界というのは、こういった価値判断をすることを皆非常に避けて通っているんですよね。つまり、「好きな人は好きだからやってるんでしょ」っていう世界なんですね、今は。例えば高嶺さんの市役所前のパフォーマンスに価値があると僕が言ったら「何言ってんだ。お前はそれを好きだから言ってるだけだろう」と。それに対して、「いや違います」って言っても、例えば僕が芸術学の先生で京大教授だから言ってんのか、って、それは権威ですよね。そうでもないと思うんですよね。そこが、「表現の自由」ということを考える時に最も重要なポイントで、大きな音を出して騒いだりするからそれは悪ふざけに過ぎないとか、性的な表現があるからそれは人に劣情をもよおす意図でしかないとか、そういうことが割と当たり前のこととして通用しているという状況を変えたいという感じがしたんです。だから僕の場合は、もちろん一人の人間としては署名しますけど、そういう署名活動を通じてするというよりは、ものを書いたり、こういう風に話したりすることでしているわけですけれども。

橋本:価値の判断を避けているという話はとても興味深くて、私が運営しているフェスティバルでも、ちょっと物議を醸すような演目があったとき、僕としては、色んな意見が衝突する場が生まれたということで、すごく前向きに、肯定的に捉えたいと考えているんです。でも一方で、何かその複数の意見が生まれた中で否定的な意見が出た時に、それをクレームとして処理してしまいやすい風潮にあるように感じます。でもそれはクレームではなく色んな意見の一つであって、その意見が衝突する場こそが芸術の場だと、何とかこのフェスティバルを通じて訴えていきたいと思っています。丸岡さんはこれまでの話を聞いていかがですか。

丸岡:私は舞台を作る側なのですが、「表現の自由」というものが外部によって規制をされることが、少ない時代に生きているとまだ言えるかもしれませんけれども、いわゆる自己規制みたいな話はよく出てきます。ところで、話が変わるかもしれませんが、映画監督のジャン・リュック・ゴダールが言ってますが、表現の自由は誰にでもある。例えばアウシュヴィッツでさえ殺さないでくれという自由はあったけれども、対価は別であったと。つまり「表現の自由」を規制することは何人もできないわけですが、しかしそれを保障する社会はどうありたいのかということが問題かと。
先ほど、斎藤さんが民主制の過程論というお話をされて、なるほどと思ったんですけれども、先日私が、音と音楽の可能性をめぐるフェスティバル(Sound Live Tokyo)をやったときに、クリスティン・スン・キムという生まれた時から耳の聞こえないアーティストのサウンド・パフォーマンスをしたんですね。その会場が野外音楽堂で、出せる音量の限度が80デシベル以下とルールとして決まっていたんです。ところが、クリスティン・スン・キムは95デシベル以上なら聞こえるんです。95デシベル以上という音がどのくらいかというと、音って1デシベル上がるごとに累乗的に増えるそうですが、例えば100デシベルは、3秒しか耐えられないような爆音ライブくらいの大きさです。
慎重に取り組むが、自身の身体事情から使用会場の音量ポリシーを破るかもしれません、という事を書いた紙を近隣に配ったんですね。それもまた「表現の自由」と社会的コンセンサスのせめぎ合いでしたが、今の社会は、例えば自分と違う身体をしている人が不自由な状態であってはいけないというコンセンサスがある良い社会だから、この話は割と肯定的にわかりやすく捉えられました。一方で、例えばヘイトデモ。新大久保で起きているヘイトデモについて、個人的に私は何ら表現に値する価値のあるものとは思っていませんけれども、他方でその思想、信条の自由というものを保障するという時に、それを法律で規制するということがどう関わるのか、ということを考えさせられます。
この二例を出したのはなぜかというと、舞台表現というのは、実は必ずしも芸術である必要は無いジャンルなんですね。例えばそれは運動としてであったり、よりエンターテインメントなもの、より芸術的なもの、様々な方向を持った表現ジャンルである。その中で、「表現の自由」をどう保障していくかということは非常に難しいかもしれませんが、内容に左右される事ではないはずです。だから、ここにいる舞台芸術の関係者の人たちが、この表現は自由に値するかしないかという話になるべきではない。そういう価値の話は全くなしに、もし私たちが今獲得している状況を失いそうになったら、どういう活動をしていけばいいのか。それは舞台芸術の世界だけの活動では難しいだろうなと思いました。

橋本:丸岡さんが自主規制というキーワードを出してくださったので、現状私たちが何を重要と考えて、表現活動に携わっていくべきなのかということについて、少し議論を展開したいと思っています。「表現の自由」というものは、表現行為をした人の責任という部分と表裏一体であるという議論を押さえておきたいと思います。先ほどヘイトデモの話もありましたけれども、「表現の自由」は無制限ではなくて、その行為によって他人を傷つけたり、プライバシーを侵害したりするようなことがあってはならない、つまり他人の人権と衝突したりする時には、場合によっては「表現の自由」を制限せざるを得ないという考え方が、ある。考え方としてあるわけです。実際にも国内でそのことについての論争や、プライバシーの侵害として裁判が行われていたりします。それを踏まえて表現の自主規制という行為が、実際に行われているわけですが、そこで考えたいのは、その表現の責任を負うべきは誰なのか、ということです。基本的にその責任は、その表現をした人にあるのではないかと思うんですが、実際に日本での舞台芸術の世界で考えていくと、公共性の高い場が発信元になる表現行為は、その作家自身ではなく、その組織や場に責任が問われるケースが多い。そのことによって実際にその運営をする側の行政、そしてそれに付随する劇場やフェスティバルといったところが、自分たちの基準で表現の規制を行っているという実例もあるんではないかと。特に近年日本では、劇場法というものが整備されて、それに伴って助成金も拡充されようとしている状況の中で、舞台芸術により公共性という言葉が付いて回るようになってきています。そういった意味で、今の自分たちがその表現とそれに対する自主規制というか、自分たちがどこまで表現をするのかということについて、問題提起をしたいと思います。

丸岡:その話に行く前に。最初にその他人を傷つけるような表現は駄目だということだったけど、「表現の自由」と人権侵害というのは、そういう分け方をしてしまっていいのか、根本的なことが気になるんですが、吉岡さんはどういうお考えですか。

吉岡:いや、駄目だということにすると、結局表現できなくなっちゃうというかね、芸術的価値があるかどうかは別として、ある種どんなこと言っても誰かは傷つくんですよね、表現行為というのは。ある人を褒めたら別の人が傷つくとかね。ヘイトスピーチのデモを例に出されたけど、例えばヨーロッパだったらホロコーストを否定するようなデモをするのは駄目ですよね。法律的に禁止している国が多いです。ホロコーストがなんで禁止かというと、あれは多くの人に共有されているトラウマで、特別なものだからだと思うんです。日本でいえば、人種差別や民族差別的なヘイトスピーチのデモが行われている時に、それは「表現の自由」だと彼らは主張するわけだけど、いくらなんでも人種差別は駄目だろうとか、そういうことが社会で共有されてないからだと思うんです。だから、もちろん規制する場合はあると思うんですけれど、それはやはり特別なものに対してやらなくてはならない。

丸岡:そうすると、人を傷つけるもしくは人権を侵害するということと、「表現の自由」はまず分けて考えるべきだと。どんな表現であれ芸術という表現に関わると、それは何かを壊し何かを傷つけ、それでも創りあげるものだということにおいては、常に軋轢を生む可能性があるかもしれないというわけですよね。なので、そこははっきり分けて、その上で私たちは次の話に進めた方がいいと思います。

橋本:まさにその話に進めていきたいと思っています。誰かが傷つくような表現は駄目だという考えが支配的なのではないか、という意味でこの話をしました。とは言え、実際その現場でそのことが分けて考えられているかというと、難しい現状があるように思います。

そもそも表現行為に価値がある必要があるのかというところですが、全然価値がなくてもいいと思うんですが、それはただ皆で様々な議論をして価値があるかないか判断していくプロセスが保障されていることが大前提だと思います。今の議論で、人の権利を侵害してしまうような表現を、法律で規制してしまうということと、皆の議論の中でいいのか悪いのか詰めて、最終的にこれはやっぱり駄目だねという意見がその議論のプロセスで勝っていくということとは、全く意味が違います。それが公共空間で何か表現行為をすることの意味でありながら、あるいは公共空間という行政が関わるところで何かをする時に、行政がそのジャッジをしてしまうことがあり得る。そこが、諸刃の矢というか、何か価値があるものしか表現できないということが、公共空間で表現をすることについての、とても難しい部分かなと思います。

→ 舞台芸術制作者オープンネットワーク シンポジウム「表現の自由をめぐって」レポート2へ続く(1月20日頃更新予定)

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