[for KIDS Column]びじゅつとせいかつ

びじゅつとせいかつ


いしいしんじ


 「びじゅつ」が盛んな幼稚園にかよっていた。自分が幼稚園にいっているとは思っていなかった。「せいかつだん」にいっている、と思っていた。
 大阪幼児生活団は、羽仁もと子女史が設立した自由学園の、全国に散らばる幼児教育施設の大阪支部だ。
 4さいぐみ、5さいぐみ、6さいぐみ、と分かれていた。通うのは週に1回だけだった。ひとりずつに「らっぱ」「ヨット」「いぬ」など「おしるし」が決まっていた。ぼくのは「くま」だった。
 生活団の玄関をあがるたび、少し安心し、少し緊張した。肌になじんだ毛布のような空気とともに、なにが起きるかわからない気配が建物のなかにたちこめていた。
 陽の射しこむ広々とした床に散らばってすわり、切ったり、描いたり、つないだり、塗ったり貼ったりした。「びじゅつをやる」は、「てをあらう」や「はととうばん」「ソルフェージュ」と同じくらい日常のことだった。身のまわりのあらゆるものが手作りだった。かばんも帽子もスモッグもクッションも、昼寝や体操やイエスさまのおはなしの時間と、おおざっぱな縫い目で、しっかりつなぎとめられていた。
 四さいぐみの十月、天王寺動物園に「えんそく」にいった。午後「せいかつだん」に帰ってきてから、「せんせい」がこどもたちに、「みなさん、ともだちになりたいと思った動物はいましたか」といった。「いまから、ひとりずつ、そのどうぶつを絵にかいてみましょう」。
 同じ年の暮れ、「クリスマス会」がひらかれた。ふだんより遅い時間にはじまった記憶がある。イエスさまのおはなしが終わり、せんせいにうながされて外を見ると、庭にちらちらと雪が舞っていた(屋根から別のせんせいが紙片をまいているなどとは考えもしなかった)。
「おや、みんな、耳をすませてみましょう」と、せんせいはいった。「てんしたちのうたごえが、きこえてきませんか」
 こどもたちは隣の部屋に向かい、驚きのあまり立ちつくした。ひな壇の上に白いスモッグをつけて並び、賛美歌のメロディをハミングしているのは、どうみてもめいめいの母親だった。少しこわかった。こどもたちが入ってくるや、「てんしたち」は腕をひろげ、ハミングをつづけながらつぎつぎと部屋を出ていった。
「みんな、てんしたちがなにかおいていきましたよ」
 ひな壇の、「てんしたち」が立っていた位置に、白い布袋が並んでいた。それぞれに「おしるし」が描かれている。自分の「おしるし」の袋をあけてみると、十月の午後に描いた「ともだちになりたいどうぶつ」の、手作りのぬいぐるみが一体ずつはいっていた。母親たちが何日も夜なべしてつくったと、6さいぐみになってから知った。ぼくのは、真っ赤なマントを着た「くろいくま」だった。
 特別なイベントだけでない。「びじゅつ」は帰宅後の日常にも軽々と侵入した。靴を脱ぎっぱなしの玄関や、片づけられていない積み木のそばには、いつのまにか「やぶれバケツ」があらわれた。横腹にひらいた穴から水がじゅくじゅく漏れだしている、泣き顔の小さなバケツだ。
 毎朝のれいすいまさつ、ベランダでの「たねうえ」や「みずやり」をすませるたび、自分で描いた花やおしぼり、動物の絵を切り抜いて、毎週配られるとりどりの「はげみひょう」に貼った。うれしいもめんどうもなかった。おなかがすけば食べる、食べ終わったらごちそうさまをいう、それくらい当たり前で、ありふれたことだった。
 生活のなかにこそ「び」が、「アート」がある。せんせいも親も子も、そのことをつゆも疑わず、ひたすら紙を切り、色を塗り、糸をつないだ。暮らしを、「せいかつ」を離れたところに、「びじゅつ」などうまれようがない。ぼく、きょうだい、せいかつだんのともだちはみんな、日々「てんしたち」と話し、「どうぶつたち」と眠り、「やぶれバケツ」をの出現を恐れながら、4さいから6さいまで「せいかつ」をつづけた。
 ぼくの創作を下支えしてくれている作品「たいふう」も、「せいかつだん」で書かれた。5さいぐみのある日、せんせいが「みんな、じぶんで、おはなしをかいてみましょう」といった。ぼくだけ、その日にはおわらなかった。画用紙の束を家に持ってかえってひとり「おばあちゃんのへや」で黙々と書いた。絵本でなく、縦書きの字がぎっしりならぶ、短い「おはなし」だった。
 書きあがった瞬間、なにかが爆発したみたいに興奮し、「できた、できた」と叫びながら台所に駆けこんだ。水場に立つふくらはぎに抱きつき、「なんなん、この子」といわれたが、それが母だったか祖母だったかはおぼえていない。四歳半の、夏のことだった。


 おーい、たいふうがくるぞ/みなとのひとが いいました/ものすごい たいふうがくるのです/おきに ちかづいているのです/みなとのひとたちは いえのやねやかべをしゅうぜんし ふねをりくにあげ/たいふうに そなえました/ところが ひねくれおとこがひとり いいました/へっ おれは たいふうなんて こわくないねえ/そして ひとりボートで うみへでていってしまったのです


 こんな書き出しではじまる「たいふう」とぼくは、書かれて30年後に再会を果たす。精神的にも肉体的にもひとり暮らしが厳しくなっていた34歳のぼくは、もう亡くなってしまった祖母の部屋に腹ばいで伏せっていた。ふいに、からだのなかがざわざわと動くのを感じ、通りがかった母に声をかけた。
「なあ、母さん。おれ昔、この部屋でなんかしとったかな」
 母はあきれ顔で、
「あんた、ずっとそこで『おはなし』書いとったやないの。毎日、毎日、せいかつだんのあいだ、20個も30個も」
「ふうん」
 ぼくは息をつき、
「そういうのん、取っといたらよかった。いま読んでみたら、どんなふうに思うやろな」
「あんた、なにいうてんのん」
 と母はますますあきれ、
「取ったあるにきまってるやない。2階の四畳半の袋棚に、つづらに入れてしまってあるわよ」
 そうして「たいふう」を読み返したぼくは、書きあげたときと同じくらいの衝撃を受け、自分は一生このつづきを書くことだけをしていこう、とこころに決めた。最初の長編「ぶらんこ乗り」の冒頭に、この作品「たいふう」はまるまる収められている。ぼくはいまもなお「たいふう」のつづきを書きつづけている。日々の「せいかつ」のなかで、少し安心し、少し緊張をたもちながら。
 こどもだからといって、みながみな、「おえかき」が好きなわけじゃない。こどもだから、必ず犬が、スパゲティが、ドラえもんが、きょうだいが、歌が、好きなわけではない。こどもが「びじゅつ」をやらなくたって、ぜんぜん問題ない。
 ただ、それが好きなこどもはいる。どうしても描きたい、作りたい、歌いたい。目ざめてから眠るまで、ごはんを食べていても、外を歩いていても。
 こどもは極端だ。「びじゅつ」は極端をこのむ。こどもは全身で、いのちをかけて没入する。絵を描く、歌を歌う、それ以上、全身が絵に、こころがメロディに、いのちが踊りに、存在が詩になる。
 その興奮は、おさない炎は、遠のき、薄れてしまうことはあっても、まちがいなく一生消えない。もうすっかりおとなになってしまった人間の魂を、思いもかけないタイミングで炙り、まばゆく輝かせてくれるなんてこともたまに起こる。




いしいしんじ
作家。1966年大阪生まれ。京都在住。2003年『麦ふみクーツェ』で坪田穣治文学賞、2012年『ある一日』で織田作之助賞。著作に小説『ぶらんこ乗り』『ポーの話』『みずうみ』『四とそれ以上の国』など、エッセイ『熊にみえて熊じゃない』『遠い足の話』など多数。


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