[for_KIDS 伝統芸能編]子どもさんにこそ古典芸能に触れさせてあげて
KYOTO AT BOX for KIDS コラム第2段では、日本の伝統芸能「能」をめぐる、おとなと子どもの伝統芸能との出会い方や付き合い方を、能楽師の田茂井廣道さんにナビゲートしていただきます。
「能」についての基礎知識から、能を鑑賞するポイントやコツに加え、ご自身の子どもへの能の稽古にあたって思うことなどを書いていただきました。
田茂井廣道
はじめに
まず「能」とは
能は室町時代から続く伝統芸能、古典芸能です。ユネスコの世界無形文化遺産に認定、登録されており、日本が世界に誇る舞台芸術なのです。(私はその能を業として生きている「能楽師」です。)
とは申しながら、現代では決してメジャーなものとはいえない状況ではあります。
「どこか知らないところで、知らない誰かが、こっそり伝えているもの」なんて思われていることもあるのですが(汗)、いえいえ、実はとても身近なものなんですよ。現代では誰でも観に行けるし、誰でも習うことができます。歴史的にみても、江戸時代などは、謡本(うたいぼん:能の台本、楽譜のようなもの)は庶民のベストセラーでしたし、殊に京都の町では、歩けば、家々から謡(うたい)を謡(うた)う声が聞こえたといいます。
「現代では誰でも」とことわったのは、むかし、例えば江戸時代は、謡を謡うことが庶民に大流行した一方で、能の「舞台を観ること」は武士階級の特権で、庶民はなかなか舞台を観ることができませんでした。そう思うと、現代は誰でも観られるわけですから、良い時代です。
能は「総合舞台芸術である」といわれます。
能 は 劇です。能の大成者のひとり・世阿弥はその著述の中で「能」という語を「劇」と同じような用法で使っています。
現代の能は、工芸・音楽・服飾・絵画・歌・身体表現・文学・詩と、様々な要素を含む劇、いわば「コラボレートされた劇」といえます。
まずは「仮面劇」です。能面という専用の仮面を使うことが特徴です。能面は彫刻・工芸作品として完成された美を具えます。単に「おもて」ともいいます。また、必ずしも能面を使う訳ではなく、用いない役柄もあります。これは「直面(ひたおもて)」といいます。(ワキの役は常に「直面」です。)
そして「音楽劇」です。笛・小鼓(こつづみ)・大鼓(おおつづみ)・太鼓の四つの「囃子(はやし)」は、それぞれが専門職で、それぞれが存在感ある演奏をし、合わせるでなく、しかし一つの調和した音楽空間を創り出します。
「扮装をする劇」でもあります。衣装を使います。衣装は西陣織の能装束。色目や、模様の美しさ、それらを織り出す技術はとても高度なものです。西陣織の技術の発展は能と密接な関係にあるといわれます。また役者の持つ 扇 には美しい彩色が施されています。扇の製作もまた高度な技術です。
「歌舞劇」としても知られます。能は日本の「オペラ」「ミュージカル」とも言われています。約700年の間、歌い、舞い続けてきた能の 謡(うたい)と 型(かた)は、無駄を省き洗練され完成されています。また同時に今もなお更なる完成へと、変化・進化を続けてもいるのです。能の台詞や歌を 謡、能の演技の所作を 型といいます。
「詩劇」としても名高いです。台本は「能本」(謡本)です。世阿弥に代表される能作者のことばを今もほぼそのまま使い上演しています。文章の基調は「七五調」です。日本語が最も無理なく美しく聞こえる七五調で謡われる謡は、言葉が聞き取れるかどうか以前に、日本人が自然になじめる響きをもちます。
『伊勢物語』、『源氏物語』、『平家物語』等の古典文学を素材とした、美しい日本語 です。能のレパートリーは約250曲ほどあります。
能《屋島 弓流(ゆみながし)》シテ田茂井廣道「第5回 道の会」
室町時代には一日に十数番の演目を上演していましたが、江戸時代には 五番立(ごばんだて)、即ち 神男女狂鬼(しんなんにょきょうき)の上演形式が確立されます。曲の内容に応じて分類し、順に並べて上演するようになりました。
神 … 神の登場する演目群。「脇能」「初番目物」。
男 … 武士の登場する演目群。「修羅能」「二番目物」。
女 … 女性が主人公の演目群。「鬘(かづら)物」「三番目物」。
狂 … 狂女が主人公の演目群。「狂女物」「四番目物」。
※別名「雑物」ともいわれ、他の範疇に 含まれない演目は、みなこの「四番目物」に分類します。
鬼 … 鬼の登場する演目群。「切能」「五番目物」。
この五番立は、五流〔観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金春(こんぱる)・金剛(こんごう)・喜多(きた)〕に一番ずつ割り振って上演させる機能も果たしました。なお、脇能の前に《 翁(おきな)》を附け勤めるのが正式な形です。
現代、一日に五番立での上演はほとんど無いですが、上演の順番は「神男女狂鬼」に基づいて組まれることが多いです。
お子さんに能を観ていただくには、鬼の能、五番目物をはじめに観ると良いかもしれません。人気のある《土蜘蛛(つちぐも)》《舎利(しゃり)》《船弁慶(ふなべんけい)》などです。
能《船弁慶 前後之替》シテ田茂井廣道 子方 田茂井律朗 「第6回 道の会」
能をどう観るか 楽しむか 能を楽しむコツ
「能は難しい」「どう観ればよいのか解らない」とおっしゃる方は多いです。能の見方として二つあると思います。
一つは「ただ、観る」。先入観を捨てて、そのままをご覧いただきたいです。美術館で工芸・絵画等を観る時のように、また音楽会を聴く時の様に。まずもって能は、純粋なパフォーマンス です。そして「和の楽器と歌のライブコンサート」なのです。
もう一つはやはり「劇として観る」です。能は「言葉の力を借りて色んなものを表現しようとする劇」であることを知っていただきたいです。それは読書の世界に近いのです。例えば、《野宮(ののみや)》という能なら、旅の僧が「嵯峨の野宮に着いた」と言ったら、そこはもう 物淋しい、洛外の嵯峨野・野宮 なのです。そう思って観ていただきたいのです。
役者の演技も、同様に甚だ抽象的です。例えば 月 を表現したいとき、舞台上に「月」は出さないで「月を見ている人」を観てもらいます。観客はその姿からそれぞれの月を自由にイメージしてもらえればよいのです。何と不親切な!と思われるかも知れませんが、能の背景は、見える人には見える、見えない人には見えない、そういう世界なのです。
確かに不親切かもしれません。しかし、どんなに精巧な大道具小道具、 「書き割り」 を出しても所詮は 「にせ物」、イメージを押しつける結果になるかもしれません。逆に何も出さなくても、想像できて、そう思えたら、それはその人にとっては「本物」です。どうか、皆さんの想像力で、スケールの大きい、色彩豊かな 背景 を描き、劇 を楽しんで頂きたいのです。能は「観客のイメージの中に広がる劇」なのです。
ですから、能を観るときのコツとして、少しだけ、どんなお話なのか、ストーリーなど、情報を事前に仕入れておくことをオススメします。ここがどこなのか、出てきた人は誰なのか。それが解るだけで能はかなり楽しめるようになります。すると、言葉も、割と自然に頭に入ってきます。数回鑑賞を重ねていただくと、不思議に謡の音が心地よくなってきます。なにより、安心してください、日本語です!英語やフランス語より、きっと分かりやすいと思います!
とっておきの最大のコツ、それは「真剣に観る」ということです。能の舞台は、かなりの真剣さ、緊張感が支配する舞台です。なので、同じ空間を共有していただくお客様には、どうか「静粛さ」というご協力を賜りたいのです。お喋り声や携帯電話のアラーム等は舞台の成否に関わる重大な妨げとなります。能を見るときは携帯電話の電源も切り、しばし現実から離れて、「夢」の世界に浸っていただきたいと思います。
能《野宮》シテ田茂井廣道 林定期能楽会
子どもに教えること
能を知らないお子さんたちは多く居られます。
子どもに「教える」、というよりは、まず、子どもに「触れてもらう」、と思っています。
子ども向けに何かイベントをすると、特に幼稚園児や小学校児童相手のとき、子どもは「先入観なく見てくれる!」、というのが実感としてあります。
そこで、しばしば気になるのが、大人の方から、
「能みたいな難しいもの、子どもに分かりますか…?」
と言われることです。
学校関係者や親御さんにお伝えしたいのは、
「とにかく触れさせてあげてください」
ということです。まずは、
知っているか知らないか、
観たことがあるかないか、
触れたことがあるかないか、
なのです。
古典の世界は、それを知るだけで、その子の人生が今後豊かになるかどうか左右するだけの、大きな力を持っていると私は信じています。
古典とは
能は古典芸能といわれます。そもそも「古典」とは、何なのでしょう。
辞書的にいうと、古い書物、あるいは歴史的価値をもつもの、でしょうか。要するに、ある一定の価値を、「かつて」認められたもの、だと思います。
この「かつて」というのがミソだと、私は思っています。
例えば、アニメ作品の「ルパン三世」。
ルパンの声優だった山田康雄さんが不在となったときに、制作者は同じテイストを維持したいと思い、栗田貫一さんを抜擢した、ということがありました。この話を聞いたとき、私は「あ、ルパンが古典になった」と思いました。かつて、山田康雄さんが作り上げたルパンの世界、それを多くの人が良いと思っていて、それを継承したのです。山田さんは苦心し努力してルパン像を作られたといいます。作られた世界の素晴らしさと、その「時間」が、ルパンには詰まっていました。また継承した栗田貫一さんも、単なるモノマネではなく、相当の覚悟をもって声優をつとめられていると聞きます。
「古典」をする、というのは、単なるコピーではなく、「先人の時間を受け取る作業」といえます。芸能者一人一人に与えられた時間は短いです。その貴重な時間を使って得られた経験が、「口伝」として、「決まりごと」として、残されます。その貴重な「時間」を、古典芸能者は受け継いでいるのです。
でも生身の人間のすること。完全なコピーはできません。でもそれだから良いのです。それがその人の個性なのです。また、その次に伝えていくとき、先人の教えプラスその人の経験が伝わります。そうやって、少しずつアップデートされた口伝、経験、時間の蓄積が、能には約700年あるのです。観客も決して無関係ではなく、能を観てきた人々が能を育ててくださいました。
「かつて」時間を費やして努力した舞台人がいた、
「かつて」その舞台を、作品を、良いと評価して楽しんだ観客がいた、
それらの「かつて」を共有することが、温故知新、自分の中にそれらの時間をありがたくも取り込み、活かし、新たな自分の人生の表現を生んでいくと思うのです。
ともかく一度触れてほしい。必ず「時間」が詰まっている、それが古典の世界です。
能に触れる「難しさ」
では、お子さんを連れて、「さあ能を観にいこう!」、と思ったとき、実は難しさがあるのも事実です。(きれいごとばかり並べてもいけません、実情を申し上げます…。)能は静粛さをお客様にご協力いただかねばならず、そのため「未就学児お断り」という催しが多いのが現状です。(スミマセン…)
ですが、探せば子どもさんOKの催しもありますし、お子さん2名まで無料!なんていう大盤振る舞いな会もあります。能楽協会や京都市、あるいは文化庁などが主催して、子ども向けのイベントも企画されていますので、アンテナをはっていただき、ぜひ一度、能に触れてみてください。
お稽古ごととしても習えます。ほとんどの能楽師は自身の稽古場を開設しており、直接指導を受けることができます。私の稽古場にも数名のお子さんが通っておられますが、がんばって稽古を続けてくれています。
小さい時に習えなかった、残念!という方も、安心してください!、大学生になれば、多くの大学に能楽サークルがあって、そこでも習えます。もし通っている大学に無くても、京都なら、京都大学観世会というサークルは、他大学の学生も入部可能です!
いろいろ、ご自身に合った情報を探してみてください!
自分の子どもに能を教える
私には現在小学校2年生の長男がおります。4歳で初舞台をし、今は主に子方(能における子役)で能の舞台に出させていただいております。
振り返れば私自身、3歳のときから、父親に連れられ舞台に出させていただき、現在まで50年、能の修行をさせていただいてきました。その経験があるので、自分の子の気持ちもわかりますし、可能な限り、チャンスがあれば一つでも多くの舞台に立たせてやろうと思っています。
稽古、と申しましても、プロの大人の能楽師が受けるそれとは違って、必要最小限の、やるべきことだけを、簡潔に教える。ただただ、繰り返し繰り返し教えて、覚えこませる、というものです。そして大人の中に混じって、能の舞台に立ちます。子方とはいえ、謡を間違えたり、演技上の約束を守らなかったりは許されません。一所懸命、舞台を勤めています。
能《安宅》子方 田茂井律朗 林追善能
子どもなりに、段々とプレッシャーも感じたり、稽古もしんどかったりするようですが、でも「やめたいか」と聞いたら、「やりたい」と答えます。彼なりにやりがいは感じているようです。
先日、子どもが通っていた幼稚園の依頼を受けて、園児の皆さんにワークショップをしました。子どもにも手伝わせたところ、とても楽しそうにやっていました。園児の皆さんも歳の近い子どもがやっていることに興味津々のようでした。
いまのうちは、長男が本当に自分から能楽師になりたいと思えた時に、それを選べる環境だけは整えてやろう、そんな気持ちで、私も一所懸命に教えています。
連吟《鞍馬天狗》田茂井廣和 廣道 律朗 「第6回 道の会」
覚えるコツは「忘れる」こと
我々プロの能楽師は、舞台の上で台本を見ることができません。なので、なにか特別な記憶の方法があるのではないか?と聞かれることがあります。ですが、そんな特別なことがあるはずもなく、覚えるために必死で稽古します。謡ならば、謡って覚える、見て覚える、聞いて覚える、こじつけて覚える…、なんでもやってみます。できたらドラえもんの「暗記パン」が欲しいです!(汗)
ですが、ちょっとしたコツは、実はあります。
それは「忘れる」こと。
まず、必死に覚えますね。繰り返し繰り返し、やってやって、ひたすら覚える時間が必要です。(この部分においてはひたすら「体育会系」です!)
次に、一回「忘れる」。そう、別のことをする時間を作り、忘れるのです!
そして、「思い出す」。これが大事。
思い出してみると、スラスラ出てくる部分と、なかなかうまく思い出せない部分が、かならずできてきます。(これらの記憶は、だいたいマダラに、「つぎはぎ」みたいになっています。)そうなったら、うまく思い出せない部分だけ重点的に覚え直せばよいのです。スラスラ出てくるところはもう覚えられたから大丈夫です。
皆さんも、何か覚えなければいけないときは、試してみてください。
子どもに伝えたいこと
能を知らないお子さんたちに、能を紹介すること(修学旅行生へのレクチャーや学校を巡回しての公演等)がしばしばある中で、いつも心がけることは「子どもをばかにしない」「子ども相手だからと手を抜かない」ということです。少しでも心に残るように、また観たいな、やってみたいな、と思っていただけるように。能の持つ魅力、能の面白さを伝えたいと思っております。
「守破離(しゅはり)」という言葉があります。
自分の子どもについては、まずは「守」をしっかり伝えたいです。
守破離は修行段階をあらわす語です。
「守」は師匠の教えをひたすら守り、繰り返し反復練習する段階、
「破」は師匠の教えを踏まえて殻を破り自分らしさを模索する段階、
「離」は師匠の教えを離れ自我を確立する段階、
と仮に定義できるでしょうか。「守」は下積みの修行段階です。覚えることだらけで、辛い時期です。でもこれを踏まえて「破」があり「離」があるのです。
我々能楽師は日々、「700年の歴史との戦い」です。先輩や、昔からのお客様から「○○という能楽師はよかったなあ」という話をよく聞かされますが、現役の我々はそれを超えるべく努力をしています。勝てないかもしれませんが、でも挑みます。また、決められた約束事も、700年の歴史の中で決められてきました。「これをこうしたい!」という変革は、歴史への挑戦なのです。
この先の能の舞台を作っていくには、まず700年の歴史を自分のものにしていかないといけません。先の長い、一生かけての挑戦です。
さあ、がんばらねば!
おわりに
繰り返しになりますが…。
江戸時代ならば、能を嗜むのは将軍や大名など、一部の上流階級の特権でした。それに比べれば現代は恵まれています。だって、誰でも能に親しめるのですから。日本が世界に誇る、世界の宝・能楽を、現代に生きる日本人にぜひ愛好していただきたいと願います。要は、「解る」「解らない」ではない。「好き」か「嫌い」か、です。日本人ならば必ず「好き」と言える、それが能なのだと信じたいと思っています。
劇は、演じる人と、観る人、両者がいてくれてはじめて成立し、継続していきます。次の時代にこの能を繋いでいけるよう、子どもたちに伝えます。これからもより一層、精進します。
田茂井廣道
能楽シテ方観世流準職分。重要無形文化財(能楽)保持者。(公社)京都観世会、(公社)能楽協会京都支部、(一社)日本能楽会、(一社)京都能楽会、林定期能楽会、林同門会などに所属。(公社)能楽協会京都支部の常議員、および教育特別委員を務める。
昭和45年5月生。田茂井廣和の長男。幼少より河村晴夫師、長じて13世林喜右衛門師、14世林宗一郎師に師事。3歳の時能《鞍馬天狗》花見にて初舞台。昭和59年に能《俊成忠度(しゅんぜいただのり)》にて初シテ(主役)。この頃より囃子を学ぶ。太鼓・前川光長師、小鼓・曽和博朗師(人間国宝)、大鼓・石井仁兵衛師、笛・光田洋一師に師事する。
平成5年より13世林喜右衛門師に内弟子入門。観世御宗家より準職分の免状を受け平成10年喜右衛門師より独立を許される。平成11年独立披露能を催し、《石橋(しゃっきょう)》赤獅子を披く。平成15年、「道の会」を発会、《猩々乱(しょうじょうみだれ)》を披く。平成16年京都観世会において《翁》千歳を披く。平成17年に大曲《道成寺》を披く。平成21年には独立披露10周年を記念し道の会で《望月》を披く。令和元年20周年には《屋島 弓流》を披く。令和5年には《安宅 瀧流之伝》を披く。
京都・三田・関東にて社中の会「碧道会」を主宰する。中国・米国・欧州等の海外公演に多数参加。
平成15年より京都芸術センターの「Traditional Theatre Traning」講師を務める。
平成17年より京都芸術センター主催の素謡の会『義経を謡ふ』『百花謡乱』『木謡日の世阿弥』『源氏の恋模謡』『寧楽逍謡』『一調二機三声』『謡の旅路』『平家を謡ふ』『ようこそ、観阿弥さん』『世謡の春』『宙にただよう恋』『世うつしの鏡』『うたいろあはせ』のナビゲーターを勤める。能の普及に微力ながらも一助となるよう活動している。
※画像はすべて許可を得て掲載しております。
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「能」についての基礎知識から、能を鑑賞するポイントやコツに加え、ご自身の子どもへの能の稽古にあたって思うことなどを書いていただきました。
子どもさんにこそ古典芸能に触れさせてあげて
田茂井廣道
はじめに
まず「能」とは
能は室町時代から続く伝統芸能、古典芸能です。ユネスコの世界無形文化遺産に認定、登録されており、日本が世界に誇る舞台芸術なのです。(私はその能を業として生きている「能楽師」です。)
とは申しながら、現代では決してメジャーなものとはいえない状況ではあります。
「どこか知らないところで、知らない誰かが、こっそり伝えているもの」なんて思われていることもあるのですが(汗)、いえいえ、実はとても身近なものなんですよ。現代では誰でも観に行けるし、誰でも習うことができます。歴史的にみても、江戸時代などは、謡本(うたいぼん:能の台本、楽譜のようなもの)は庶民のベストセラーでしたし、殊に京都の町では、歩けば、家々から謡(うたい)を謡(うた)う声が聞こえたといいます。
「現代では誰でも」とことわったのは、むかし、例えば江戸時代は、謡を謡うことが庶民に大流行した一方で、能の「舞台を観ること」は武士階級の特権で、庶民はなかなか舞台を観ることができませんでした。そう思うと、現代は誰でも観られるわけですから、良い時代です。
能は「総合舞台芸術である」といわれます。
能 は 劇です。能の大成者のひとり・世阿弥はその著述の中で「能」という語を「劇」と同じような用法で使っています。
現代の能は、工芸・音楽・服飾・絵画・歌・身体表現・文学・詩と、様々な要素を含む劇、いわば「コラボレートされた劇」といえます。
まずは「仮面劇」です。能面という専用の仮面を使うことが特徴です。能面は彫刻・工芸作品として完成された美を具えます。単に「おもて」ともいいます。また、必ずしも能面を使う訳ではなく、用いない役柄もあります。これは「直面(ひたおもて)」といいます。(ワキの役は常に「直面」です。)
そして「音楽劇」です。笛・小鼓(こつづみ)・大鼓(おおつづみ)・太鼓の四つの「囃子(はやし)」は、それぞれが専門職で、それぞれが存在感ある演奏をし、合わせるでなく、しかし一つの調和した音楽空間を創り出します。
「扮装をする劇」でもあります。衣装を使います。衣装は西陣織の能装束。色目や、模様の美しさ、それらを織り出す技術はとても高度なものです。西陣織の技術の発展は能と密接な関係にあるといわれます。また役者の持つ 扇 には美しい彩色が施されています。扇の製作もまた高度な技術です。
「歌舞劇」としても知られます。能は日本の「オペラ」「ミュージカル」とも言われています。約700年の間、歌い、舞い続けてきた能の 謡(うたい)と 型(かた)は、無駄を省き洗練され完成されています。また同時に今もなお更なる完成へと、変化・進化を続けてもいるのです。能の台詞や歌を 謡、能の演技の所作を 型といいます。
「詩劇」としても名高いです。台本は「能本」(謡本)です。世阿弥に代表される能作者のことばを今もほぼそのまま使い上演しています。文章の基調は「七五調」です。日本語が最も無理なく美しく聞こえる七五調で謡われる謡は、言葉が聞き取れるかどうか以前に、日本人が自然になじめる響きをもちます。
『伊勢物語』、『源氏物語』、『平家物語』等の古典文学を素材とした、美しい日本語 です。能のレパートリーは約250曲ほどあります。
能《屋島 弓流(ゆみながし)》シテ田茂井廣道「第5回 道の会」
於・京都観世会館 (撮影・金の星渡辺写真場)
室町時代には一日に十数番の演目を上演していましたが、江戸時代には 五番立(ごばんだて)、即ち 神男女狂鬼(しんなんにょきょうき)の上演形式が確立されます。曲の内容に応じて分類し、順に並べて上演するようになりました。
神 … 神の登場する演目群。「脇能」「初番目物」。
男 … 武士の登場する演目群。「修羅能」「二番目物」。
女 … 女性が主人公の演目群。「鬘(かづら)物」「三番目物」。
狂 … 狂女が主人公の演目群。「狂女物」「四番目物」。
※別名「雑物」ともいわれ、他の範疇に 含まれない演目は、みなこの「四番目物」に分類します。
鬼 … 鬼の登場する演目群。「切能」「五番目物」。
この五番立は、五流〔観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金春(こんぱる)・金剛(こんごう)・喜多(きた)〕に一番ずつ割り振って上演させる機能も果たしました。なお、脇能の前に《 翁(おきな)》を附け勤めるのが正式な形です。
現代、一日に五番立での上演はほとんど無いですが、上演の順番は「神男女狂鬼」に基づいて組まれることが多いです。
お子さんに能を観ていただくには、鬼の能、五番目物をはじめに観ると良いかもしれません。人気のある《土蜘蛛(つちぐも)》《舎利(しゃり)》《船弁慶(ふなべんけい)》などです。
能《船弁慶 前後之替》シテ田茂井廣道 子方 田茂井律朗 「第6回 道の会」
於・河村能舞台(撮影・金の星渡辺写真場)
能をどう観るか 楽しむか 能を楽しむコツ
「能は難しい」「どう観ればよいのか解らない」とおっしゃる方は多いです。能の見方として二つあると思います。
一つは「ただ、観る」。先入観を捨てて、そのままをご覧いただきたいです。美術館で工芸・絵画等を観る時のように、また音楽会を聴く時の様に。まずもって能は、純粋なパフォーマンス です。そして「和の楽器と歌のライブコンサート」なのです。
もう一つはやはり「劇として観る」です。能は「言葉の力を借りて色んなものを表現しようとする劇」であることを知っていただきたいです。それは読書の世界に近いのです。例えば、《野宮(ののみや)》という能なら、旅の僧が「嵯峨の野宮に着いた」と言ったら、そこはもう 物淋しい、洛外の嵯峨野・野宮 なのです。そう思って観ていただきたいのです。
役者の演技も、同様に甚だ抽象的です。例えば 月 を表現したいとき、舞台上に「月」は出さないで「月を見ている人」を観てもらいます。観客はその姿からそれぞれの月を自由にイメージしてもらえればよいのです。何と不親切な!と思われるかも知れませんが、能の背景は、見える人には見える、見えない人には見えない、そういう世界なのです。
確かに不親切かもしれません。しかし、どんなに精巧な大道具小道具、 「書き割り」 を出しても所詮は 「にせ物」、イメージを押しつける結果になるかもしれません。逆に何も出さなくても、想像できて、そう思えたら、それはその人にとっては「本物」です。どうか、皆さんの想像力で、スケールの大きい、色彩豊かな 背景 を描き、劇 を楽しんで頂きたいのです。能は「観客のイメージの中に広がる劇」なのです。
ですから、能を観るときのコツとして、少しだけ、どんなお話なのか、ストーリーなど、情報を事前に仕入れておくことをオススメします。ここがどこなのか、出てきた人は誰なのか。それが解るだけで能はかなり楽しめるようになります。すると、言葉も、割と自然に頭に入ってきます。数回鑑賞を重ねていただくと、不思議に謡の音が心地よくなってきます。なにより、安心してください、日本語です!英語やフランス語より、きっと分かりやすいと思います!
とっておきの最大のコツ、それは「真剣に観る」ということです。能の舞台は、かなりの真剣さ、緊張感が支配する舞台です。なので、同じ空間を共有していただくお客様には、どうか「静粛さ」というご協力を賜りたいのです。お喋り声や携帯電話のアラーム等は舞台の成否に関わる重大な妨げとなります。能を見るときは携帯電話の電源も切り、しばし現実から離れて、「夢」の世界に浸っていただきたいと思います。
能《野宮》シテ田茂井廣道 林定期能楽会
於・京都観世会館(撮影・金の星渡辺写真場)
子どもに教えること
能を知らないお子さんたちは多く居られます。
子どもに「教える」、というよりは、まず、子どもに「触れてもらう」、と思っています。
子ども向けに何かイベントをすると、特に幼稚園児や小学校児童相手のとき、子どもは「先入観なく見てくれる!」、というのが実感としてあります。
そこで、しばしば気になるのが、大人の方から、
「能みたいな難しいもの、子どもに分かりますか…?」
と言われることです。
学校関係者や親御さんにお伝えしたいのは、
「とにかく触れさせてあげてください」
ということです。まずは、
知っているか知らないか、
観たことがあるかないか、
触れたことがあるかないか、
なのです。
古典の世界は、それを知るだけで、その子の人生が今後豊かになるかどうか左右するだけの、大きな力を持っていると私は信じています。
幼稚園での能のワークショップの様子(写真提供・京都市 鴨東幼稚園)
古典とは
能は古典芸能といわれます。そもそも「古典」とは、何なのでしょう。
辞書的にいうと、古い書物、あるいは歴史的価値をもつもの、でしょうか。要するに、ある一定の価値を、「かつて」認められたもの、だと思います。
この「かつて」というのがミソだと、私は思っています。
例えば、アニメ作品の「ルパン三世」。
ルパンの声優だった山田康雄さんが不在となったときに、制作者は同じテイストを維持したいと思い、栗田貫一さんを抜擢した、ということがありました。この話を聞いたとき、私は「あ、ルパンが古典になった」と思いました。かつて、山田康雄さんが作り上げたルパンの世界、それを多くの人が良いと思っていて、それを継承したのです。山田さんは苦心し努力してルパン像を作られたといいます。作られた世界の素晴らしさと、その「時間」が、ルパンには詰まっていました。また継承した栗田貫一さんも、単なるモノマネではなく、相当の覚悟をもって声優をつとめられていると聞きます。
「古典」をする、というのは、単なるコピーではなく、「先人の時間を受け取る作業」といえます。芸能者一人一人に与えられた時間は短いです。その貴重な時間を使って得られた経験が、「口伝」として、「決まりごと」として、残されます。その貴重な「時間」を、古典芸能者は受け継いでいるのです。
でも生身の人間のすること。完全なコピーはできません。でもそれだから良いのです。それがその人の個性なのです。また、その次に伝えていくとき、先人の教えプラスその人の経験が伝わります。そうやって、少しずつアップデートされた口伝、経験、時間の蓄積が、能には約700年あるのです。観客も決して無関係ではなく、能を観てきた人々が能を育ててくださいました。
「かつて」時間を費やして努力した舞台人がいた、
「かつて」その舞台を、作品を、良いと評価して楽しんだ観客がいた、
それらの「かつて」を共有することが、温故知新、自分の中にそれらの時間をありがたくも取り込み、活かし、新たな自分の人生の表現を生んでいくと思うのです。
ともかく一度触れてほしい。必ず「時間」が詰まっている、それが古典の世界です。
能に触れる「難しさ」
では、お子さんを連れて、「さあ能を観にいこう!」、と思ったとき、実は難しさがあるのも事実です。(きれいごとばかり並べてもいけません、実情を申し上げます…。)能は静粛さをお客様にご協力いただかねばならず、そのため「未就学児お断り」という催しが多いのが現状です。(スミマセン…)
ですが、探せば子どもさんOKの催しもありますし、お子さん2名まで無料!なんていう大盤振る舞いな会もあります。能楽協会や京都市、あるいは文化庁などが主催して、子ども向けのイベントも企画されていますので、アンテナをはっていただき、ぜひ一度、能に触れてみてください。
お稽古ごととしても習えます。ほとんどの能楽師は自身の稽古場を開設しており、直接指導を受けることができます。私の稽古場にも数名のお子さんが通っておられますが、がんばって稽古を続けてくれています。
小さい時に習えなかった、残念!という方も、安心してください!、大学生になれば、多くの大学に能楽サークルがあって、そこでも習えます。もし通っている大学に無くても、京都なら、京都大学観世会というサークルは、他大学の学生も入部可能です!
いろいろ、ご自身に合った情報を探してみてください!
自分の子どもに能を教える
私には現在小学校2年生の長男がおります。4歳で初舞台をし、今は主に子方(能における子役)で能の舞台に出させていただいております。
振り返れば私自身、3歳のときから、父親に連れられ舞台に出させていただき、現在まで50年、能の修行をさせていただいてきました。その経験があるので、自分の子の気持ちもわかりますし、可能な限り、チャンスがあれば一つでも多くの舞台に立たせてやろうと思っています。
稽古、と申しましても、プロの大人の能楽師が受けるそれとは違って、必要最小限の、やるべきことだけを、簡潔に教える。ただただ、繰り返し繰り返し教えて、覚えこませる、というものです。そして大人の中に混じって、能の舞台に立ちます。子方とはいえ、謡を間違えたり、演技上の約束を守らなかったりは許されません。一所懸命、舞台を勤めています。
能《安宅》子方 田茂井律朗 林追善能
於・京都観世会館(撮影・金の星渡辺写真場)
子どもなりに、段々とプレッシャーも感じたり、稽古もしんどかったりするようですが、でも「やめたいか」と聞いたら、「やりたい」と答えます。彼なりにやりがいは感じているようです。
先日、子どもが通っていた幼稚園の依頼を受けて、園児の皆さんにワークショップをしました。子どもにも手伝わせたところ、とても楽しそうにやっていました。園児の皆さんも歳の近い子どもがやっていることに興味津々のようでした。
幼稚園での能のワークショップの様子(写真提供・京都市 鴨東幼稚園)
いまのうちは、長男が本当に自分から能楽師になりたいと思えた時に、それを選べる環境だけは整えてやろう、そんな気持ちで、私も一所懸命に教えています。
連吟《鞍馬天狗》田茂井廣和 廣道 律朗 「第6回 道の会」
於・河村能舞台(撮影・金の星渡辺写真場)
覚えるコツは「忘れる」こと
我々プロの能楽師は、舞台の上で台本を見ることができません。なので、なにか特別な記憶の方法があるのではないか?と聞かれることがあります。ですが、そんな特別なことがあるはずもなく、覚えるために必死で稽古します。謡ならば、謡って覚える、見て覚える、聞いて覚える、こじつけて覚える…、なんでもやってみます。できたらドラえもんの「暗記パン」が欲しいです!(汗)
ですが、ちょっとしたコツは、実はあります。
それは「忘れる」こと。
まず、必死に覚えますね。繰り返し繰り返し、やってやって、ひたすら覚える時間が必要です。(この部分においてはひたすら「体育会系」です!)
次に、一回「忘れる」。そう、別のことをする時間を作り、忘れるのです!
そして、「思い出す」。これが大事。
思い出してみると、スラスラ出てくる部分と、なかなかうまく思い出せない部分が、かならずできてきます。(これらの記憶は、だいたいマダラに、「つぎはぎ」みたいになっています。)そうなったら、うまく思い出せない部分だけ重点的に覚え直せばよいのです。スラスラ出てくるところはもう覚えられたから大丈夫です。
皆さんも、何か覚えなければいけないときは、試してみてください。
子どもに伝えたいこと
能を知らないお子さんたちに、能を紹介すること(修学旅行生へのレクチャーや学校を巡回しての公演等)がしばしばある中で、いつも心がけることは「子どもをばかにしない」「子ども相手だからと手を抜かない」ということです。少しでも心に残るように、また観たいな、やってみたいな、と思っていただけるように。能の持つ魅力、能の面白さを伝えたいと思っております。
「守破離(しゅはり)」という言葉があります。
自分の子どもについては、まずは「守」をしっかり伝えたいです。
守破離は修行段階をあらわす語です。
「守」は師匠の教えをひたすら守り、繰り返し反復練習する段階、
「破」は師匠の教えを踏まえて殻を破り自分らしさを模索する段階、
「離」は師匠の教えを離れ自我を確立する段階、
と仮に定義できるでしょうか。「守」は下積みの修行段階です。覚えることだらけで、辛い時期です。でもこれを踏まえて「破」があり「離」があるのです。
我々能楽師は日々、「700年の歴史との戦い」です。先輩や、昔からのお客様から「○○という能楽師はよかったなあ」という話をよく聞かされますが、現役の我々はそれを超えるべく努力をしています。勝てないかもしれませんが、でも挑みます。また、決められた約束事も、700年の歴史の中で決められてきました。「これをこうしたい!」という変革は、歴史への挑戦なのです。
この先の能の舞台を作っていくには、まず700年の歴史を自分のものにしていかないといけません。先の長い、一生かけての挑戦です。
さあ、がんばらねば!
能《船弁慶》子方 田茂井律朗 「第6回 道の会」 於・河村能舞台(撮影・金の星渡辺写真場)
おわりに
繰り返しになりますが…。
江戸時代ならば、能を嗜むのは将軍や大名など、一部の上流階級の特権でした。それに比べれば現代は恵まれています。だって、誰でも能に親しめるのですから。日本が世界に誇る、世界の宝・能楽を、現代に生きる日本人にぜひ愛好していただきたいと願います。要は、「解る」「解らない」ではない。「好き」か「嫌い」か、です。日本人ならば必ず「好き」と言える、それが能なのだと信じたいと思っています。
劇は、演じる人と、観る人、両者がいてくれてはじめて成立し、継続していきます。次の時代にこの能を繋いでいけるよう、子どもたちに伝えます。これからもより一層、精進します。
田茂井廣道
能楽シテ方観世流準職分。重要無形文化財(能楽)保持者。(公社)京都観世会、(公社)能楽協会京都支部、(一社)日本能楽会、(一社)京都能楽会、林定期能楽会、林同門会などに所属。(公社)能楽協会京都支部の常議員、および教育特別委員を務める。
昭和45年5月生。田茂井廣和の長男。幼少より河村晴夫師、長じて13世林喜右衛門師、14世林宗一郎師に師事。3歳の時能《鞍馬天狗》花見にて初舞台。昭和59年に能《俊成忠度(しゅんぜいただのり)》にて初シテ(主役)。この頃より囃子を学ぶ。太鼓・前川光長師、小鼓・曽和博朗師(人間国宝)、大鼓・石井仁兵衛師、笛・光田洋一師に師事する。
平成5年より13世林喜右衛門師に内弟子入門。観世御宗家より準職分の免状を受け平成10年喜右衛門師より独立を許される。平成11年独立披露能を催し、《石橋(しゃっきょう)》赤獅子を披く。平成15年、「道の会」を発会、《猩々乱(しょうじょうみだれ)》を披く。平成16年京都観世会において《翁》千歳を披く。平成17年に大曲《道成寺》を披く。平成21年には独立披露10周年を記念し道の会で《望月》を披く。令和元年20周年には《屋島 弓流》を披く。令和5年には《安宅 瀧流之伝》を披く。
京都・三田・関東にて社中の会「碧道会」を主宰する。中国・米国・欧州等の海外公演に多数参加。
平成15年より京都芸術センターの「Traditional Theatre Traning」講師を務める。
平成17年より京都芸術センター主催の素謡の会『義経を謡ふ』『百花謡乱』『木謡日の世阿弥』『源氏の恋模謡』『寧楽逍謡』『一調二機三声』『謡の旅路』『平家を謡ふ』『ようこそ、観阿弥さん』『世謡の春』『宙にただよう恋』『世うつしの鏡』『うたいろあはせ』のナビゲーターを勤める。能の普及に微力ながらも一助となるよう活動している。
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